2015年7月6日月曜日

甘露山妙雲寺をたずねて

塩原温泉には、有名が禅寺があります。
いつも利用している「水車(みずぐるま)」さんのすぐ隣のおてらですが、牡丹祭りが、有名です。
すぐそばの水車までは、いくども訪ねていたのですが、妙雲寺をたずねるのは、初めてでした。
ダンスのサークルメンバーとで境内を散策いたしました。
静寂な境内は、ちょうど雨曇りのしっとりとした雰囲気で、心洗われる気持ちで散策いたしました。

縁起によると-------------
下野国甘露山妙雲寺縁起解説         
この寺は小松内府重盛公の姨妙雲尼公の開基です。釈迦如来立像は栴檀香木の毘首羯摩の彫刻によるところで、小松内府の仰ぎ奉った霊像であり、朝廷の三釈尊と同じ作品で随一なりと言われています。源平合戦のはじめの寿永(一一八二)頃、平家が一ノ谷の戦いに敗北して一族ことごとく流離しました。時に源頼朝は海内に脅しを振るい権限を欲しいままにし、日本国内の幾千里、身を隠す地も無く、平氏をさがし赤子にまで罰をあたえました。しかし平氏の家臣筑後守貞能は、元より宇都宮朝綱と身内の関係があったゆえに妙雲尼公を誘って、まさに宇都宮に赴かんとしていました。平重盛の遺愛していた釈迦如来立像を置き去りにする事に忍びず、これを笈の中に入れ自ら背負って宇都宮にきました。逃れてきた事を宇都宮朝綱に相談しました。朝綱は鎌倉の源頼朝の許しを求めたが、頼朝は平貞能を恐れていました。それで宇都宮城内に留めることは成らず、はるか我が領内の藤原山中に送り住まわせました。

 その後、影をひそめて二年余り、ここに平貞能自ら「山浅くして人里の居る塩原に移すことが望ましい」と言いだし藤原山中を離れました。大きな樹木の危険な所をよじ登り、断崖を行ったり来たり登ったり、あるいは蔦かずらの茎を払いながらそばたつ壁を道として、ようやく塩原の山陰の小滝仏沢にたどり着きました。藪や草を刈り茅葺きの庵を造り釈迦如来立像を安置し、その地で、常に日本の国が良くなることを願って、平家天界の供養を施していました。大自然の中で樵をして良い薪をつくり、醴泉甘冷にして身を清め、川原の岩の割れ目から霊湯(名湯)が湧き出ている温泉に入り体を癒しました。傍ら台地(月夜川)のワラビを採り葛を堀り住んでいました。

 遠く湯源の仙境(門前)に憧れその土地に飛来しました。いささか住み慣れ、信仰の心を朝の花の紅に染め、教えの心を夜灯の輝きに照らし事も無く、幾多の年月が過ぎ妙雲尼が死去しました。その法名を以て寺に扁して妙雲寺と称号しました。その後、正和年間(一三一二から一七)、大同妙喆と云う人がいました。旧奥州最上の人で、法を佛国国師から嗣ぎ、まことに学識を納め五山の俊才でした。たまたま、日光山(高原山)中に悪龍がいました、わずかに湖水(塩原村)に触れたちまち雷を起こし、疾風を起こし高木を抜き怪石をもぎ取り、村人を常に困らせたと聞かされました。大同妙喆和尚自らこの山頂(甘露山)に登り、その湖面(妙雲寺)を見れば、釈迦如来霊像を拝し霊庵の余りにも寂寞を見て、去るのに忍びず村人に説法を施し、一喝を与えました。これにより悪龍が己から降伏して住民に災いが無くなりました。遂に錫を留められ十方の信仰により、七堂伽藍を建て尼寺を改めて甘露山妙雲寺と称しました。この所にようやくその面目を一新して法灯を樹立しました。

 宇都宮領主貞綱の庇護により潤ってきたところ、戦国動乱の時代に入り浄財も布施も無く、細々と住持や村人の篤い信仰により、甘露山妙雲寺の法灯は、三百有余年守られてきました。しかし文禄年中(一五九二から九六)世の中の乱れの災難に遭い、七堂伽藍は瓦礫の場となり、すべての甘露山妙雲寺の古文書や縁起書類は焼失し、只々、本尊釈迦如来立像のみが難を逃れました。凡そ甘露山妙雲寺創建より寛文六年(一六六六)に至るまで、計るに四百八十年間、古老の口伝によつて大略を記しました。以上の通り、宇都宮城主奥平忠昌様に広く理解をいただき、そのあれた甘露山妙雲寺の欠けたところを補修して頂きました。寛文六年二月、甘露山妙雲寺住持紀泰首座の求めによつて、神護山興禅寺に於いて関林和尚が書き表しました。
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