2020年10月26日月曜日

「種を蒔かなければ」-那須文化研究会Vol003

 ネクストリーダーという啓蒙のブログがあります。株式会社ダイレクト出版社の販促のものですが、「種を蒔かなければ、欲しいものは手に入らない。」というタイトルで書かれていました。

私は栃木県那須郡那須町大字稲沢の生まれ育ちです。田圃2丁歩、畑も8反歩と山林は10丁歩を超えて持つ、旧伊王野村では米100俵を供出できる有数の農家でした。私の生まれた昭和25年頃には、曾祖母キンと祖父母兼次郎、ヨシがおり、両親と子供6人、叔父叔母合せて13人の大家族でした。盆暮の親戚の者が帰省すると20人を超える宴となりました。キンの夫の音松は54歳で急逝していますが、琵琶池の田口の出で、兄弟は近在のそれなりの家に婿に入りました。音松はじめ皆優秀な人物だったようです。嫁ぎ先の地域でも一目置かれる人物として名を馳せたと聞きます。氏家に婿入りした方は、実業家で籾殻の選別機で特許を持っていました。同じく、大田原市の平沢に婿入りした方も優秀で地域で代々一目置かれる開明的な農家になっています。我が家の音松も新参者でしたが、この稲沢部落では一目置かれていたようです。ある時我が家で音松の法要が営まれその折に琵琶池の田口出の者達が7,8人で来られましたが、驚きました。皆揃って私の叔父叔母や大叔父の子ども達にそっくりな顔立ちなのです。宴席に並ぶ叔父叔母は「あれまあっ!」と顔を見合わせていました。血は争えないものですね。叔父叔母の従妹や再従兄弟姉妹にあたります。私のご先祖は、越中富山の砺波地方から琵琶池を経て、明治の初めにこの稲沢の膳棚の地に入植しました。父の代で4代目と言います。砺波地方のお寺に家系図があり、父はそのルーツを尋ね、その家が代々八田藤四郎を名乗り、半農半士の足軽だったと調べてきました。この膳棚の地は谷地ッ田という湿地で両郷の浄土真宗のお寺の地所だったと聞きますが、山林の一部は越堀の藤田郵便局長の土地だったようです。長年小作をしていましたが、こつこつと貯めて祖父母の兼次郎、ヨシの代に完済し、現在の土地を持つ有数の農家になりました。那須文化研究会の木村会長の話すには、富山県人たちは、湿地を好んで入植したようだといいます。お米が美味しいのが湿地です。琵琶池や江川沿いの村々も湿地になります。この膳棚の地も紛れもない湿地でした。旧奥州街道近くになる古くから住む稲沢の人々は、高地(台)に住み着き物事の変革は気性的に苦手だったといいます。それに引き換え、富山県人たちは、開明的で起業家だったともいいます。越中富山の人達は敬虔な浄土真宗(一向宗)の門戸です。私の性格からその血が流れているのを感じます。

農家に生まれ子どもの頃から、父や母、祖父母の仕事を見て育ちました。茅葺屋根の背後に山を背負い、孟宗竹や真竹を風除けに植えて、小さな沢が山裾の端を流れており、そこから水を庭の浮島のある池に引き、一寸した和風庭園ですが、いつも冷たい水が「筧(竹の筒)」から、池の受け桶に豊富に流れ落ちていました。我が家に来る人々はその水を手酌で汲みその冷たさと美味しさに声を上げていました。夏には、西瓜やトマトが冷やされていました。私たち子どもは一年を通して毎朝その水で顔を洗っていました。流れる水を手に受けて顔を洗う、シャキッとする瞬間です。竹藪からは、旬には筍が取れて、その美味しさは有名でした。土地が肥えていたのでしょう。背後の山と南を向いた窪地のせいで暴風雨でも災害に会うことはありませんでした。この暮らしの生活方法は、富山人の長い入植からの智恵だと思います。この優れた地のことは越中富山の薬売りの情報からだと思います。彼等は全国に情報網を持っていたようです。私が記憶に残るのは、私は次男坊で母が22歳の時の子ですから、私が5、6歳の頃に思い出す母は、20代後半の若い女性でした。あまり美人とは言えませんが、色白で小柄ながら豊満な女性で勉強も良く出来る賢い女性でした。母の兄になる二十何歳か年の離れた伯父の文右衛門には、随分と可愛がられたと聞きます。姿格好は、農家の嫁でしたから絣や縞の着物を纏いモンペに手拭いを姉さん被りにしていました。私や長女娘や孫が色白なのは母似だからです。いつも何かの農作業をしていましたので、白い顔や胸を火照らせて、手拭いで汗を拭っていました。父と母の二人で朝早くに草刈りに出かけ、春先には馬を使い水田の荒くれ掻きや田植えの準備をしていました。田植えは、村内の人達が結で来られ、隣部落から多くの人達が手伝い人夫で来られていました。農繁期には、昼時や囲炉裏と土間がそんな女衆と男衆でいっぱいになりました。早苗饗の最後には、宴会となりました。興に乗り祖父兼次郎が詩吟を詠じて踊っていたのを思い出します。曾祖母のキンや祖母ヨシの着物は色味こそ年齢に応じて地味でしたが、同じく着物とモンペの格好でした。これが農家の標準着です。二人とも琵琶池と隣部落藤沢の高橋の家の出です。同じく越中富山からの人々だと聞きます。二人ともそろって働き者で、80歳を過ぎても朝早く4時頃から畑に草取りで出かけていました。蚋(ブヨ)に喰われない時間帯だからです。それでも顔中を喰われて瞼も赤く腫れて目が見えない程になっていました。私達は6人兄弟として育ちましたが、兄、私の後には妹が3人と弟がひとり生まれ育ちました。実際は、3男の弟の後に4男の子が宿りましたが、水子になりました。当時であっても6人の子どもは多過ぎたのでしょう。私達はそのことを知りませんでしたが、ある時母が水子供養をしているのを見て知りました。そして、その後に最後の女の子が宿り、泣いて母が父に産むことを迫ったと聞きました。その子は、もうじき60歳近くになりますが、性格や顔立ちは叔父叔母に似て、綺麗な賢い女性になりました。

那須町大字稲沢小字膳棚の
水田風景です。この右の杉林の窪地に
お墓があります。
現在は、4軒の家の共同墓地です。
祖父兼次郎の好きな葱味噌です。
葱の美味しい時期に作りました。
懐かしい味ですが、娘が好んで
食べてくれます。

ブログのテーマ「種を蒔かなければ、欲しいものは手に入らない。」は、人生を生きる上で鍵となります。農家育ちの私には、「種を蒔く」は、「目的」に向かい行動を起こすことを意味します。「収穫」は「目的」です。

私達は、あまりに受動的な生き方をしています。種を蒔かずに収穫だけを望む生き方です。TVのスイッチを入れると次から次に偏向(遮光)されたニュースが流れ、国民を扇動する政治ショーが映ります。そして、タレントといわれる著名人が意見を述べています。その問題には関係のない専門外の人々の意見です。私は首を傾げざるを得ません。番組制作の担当者の筋書きに載ってです。すべてがバラエティ化した番組です。数パーセント支持率の野党が、立憲民主党や共産党が、与党を非難しています。そして、メディアが挙ってさも正論であるかのように取り上げて放映しています。ニュースは全てがメディアの意のままに切接ぎして作ります。さも真実のように事実を反対にすることまでも印象付けて行います。現代日本のメディアは、何食わぬ顔をして恐ろしい人々です。かつてTVが普及した際に「一億総白痴化」が言われたことを思い出します。国家の政策は、私達の思いとは異なり空滑りする方向に向かいます。コロナ禍の10万円一律配布など愚の骨頂です。野党やメディアは、政治スキームのことなる国々の一部を取り上げて、政権を攻撃します。年金生活者や公務員などの人々は、何ら影響を受けていません。そのような金は不要です。世相に沿わなければ、政権維持が危ういからです。しかし、国民はそれほどに馬鹿じゃありません。その証拠に何でも反対の野党の支持率をご覧ください。SNSやメディアで取り上げられて、扇動の道具とされていますが、それは、真実とは程遠いものです。日本社会は高度に統合された社会です。問題解決に黒い糸を一本引き抜こうと思っても多くの糸が絡み合い解れることはありません。全てが絡み合っているこの社会は、何を鍵にして解すことが出来るのでしょうか。私には分かりません。

しかし、「鍵」は、時間です。育成する「時間」が「鍵」となります。解けなかった柵の絡む糸が、面白いように解れてくると思います。つまり、「種を蒔くこと」が「鍵」になるように思います。この世の中を未来の社会を「幸せな社会にする目的」として「種を蒔きたい」と思います。生きている今、種を蒔かなければと思います。那須文化研究会では、史実から真実を読み解き未来に繋ぐとしています。私は、未来の為に今、子ども達に伝えたいと思います。「日本の真実の史実」を。「欧米によって捏造され目に触れて来なかった日本の誇り高い真実の歴史」を。

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2020年10月23日金曜日

ルーツ-那須文化研究会.Vol002

昨日は、那須文化研究会の木村康夫会長を大田原市教育委員会事務局に尋ねました。というのは、那須塩原市の生涯学習課に歴史研究会のサークルを尋ねた処、御紹介頂いたからです。

冒頭は、名刺交換からでした。私は、手仕事専科のwebsiteを運営しており、那須ビューホテル時代に尾島利男先生の薫陶を受け、下野地方の伝統工芸や民俗芸能に触れたことからだと。木村会長は、教諭を長年なされており、国語担当だったと言います。大田原高校卒の1学年後輩になり、私の知っている1学年上級の稲沢道夫氏や同級生だった鈴木勝男氏と那須高校教諭時代に同僚として感化を受けたと言います。彼らを知る私には、優秀だった彼等ならではと想像できます。

家から眺める水田風景
右の杉林は、茅野に植えられたものです。

八重さんちという場所に建てられた家。
子どもの頃はここは、
向かい側の陽当たりの良い畑でした。
ホウレンソウや馬鈴薯、人参などが植えられていました。
私の5,6歳の頃の思い出です。
その後、お茶が植えられて、茶摘みをした思い出があります。

お墓参りに止めた愛車。
私の兄の代で越中(富山県)砺波地方から移住して5代目となります。砺波では、代々八田藤四郎という家だそうです。江戸時代から明治に移行する頃に一時大田原市の琵琶池に住みその後今の地、稲沢(膳棚)に移ってきました。琵琶池や福原の江川から湯津上に続く地域は同じくと富山県からの人々が住みついていたと言います。富山県人は敬虔な浄土真宗(一向宗)の信者で県民性というのか、事業欲がありいろいろな事業を行って開明的な人々だと言います。私の曽祖父、音松の兄弟は皆他の地区に婿に入り、発明特許を取得し事業家だったと聞きます。兄弟だった平沢の鶴野氏は、同じく開明的な人だったようです。私の曾祖母や祖母は同じく佐久山の出身で浄土真宗の信者です。朝晩、折あれば仏壇に向かっていました。私も子どもの頃は、彼岸やお盆の時に仏壇の掃除は毎度のことでした。晴れた日に縁側に並べて灰汁を使い仏器を奇麗に磨いていました。朝のお仏器でのご飯のお供えや線香をあげるのが子どもの頃の私の日課でした。ルーツという言葉があります。祖父母の背中を見て育ち、私のルーツは、越中(富山県)にあります。私に流れている血は紛れもない越中富山人の血だと感じます。

木村会長の話から、かつてこの土地の家が萱葺屋根だった頃は、会津地方から、萱葺の職人たちが、農閑期に出稼ぎに来たという。私の住む稲沢部落には茅野という入会地があり、多くの人達が参加して、屋根の葺き替えを交代で「結い」で行っていました。その後、多くの家が萱屋根からトタン葺きや瓦に代わり共有地は必要なくなりました。そして、不動産として都会の何方かに売られました。私の子どもの頃に幾度か屋根の葺き替えを見ていました。57坪の農家です。縁側があり土間の台所と囲炉裏があり、広間と座敷、納戸と4畳の間がありました。仏壇は、座敷に造られて浄土真宗の豪華なものでした。数日間掛けて村中の人々が来られて作業をしていました。村の誰か知る人が指図していました。それまでには準備として萱や藁、葦を集めて、束ねて一か所に積んでいました。

木村会長は、私の伝統工芸品と民芸品、伝統食品の通販で160もの工房があることから、それらの工房の歴史と那須地方との関りとを調べられては如何かといいます。ひとつのテーマとなることが考えられます。郷土史と伝統工芸の歴史です。私の新しい視点になりそうです。

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2020年10月22日木曜日

那須文化研究会のこと。Vol001

 今日は、那須文化研究会の木村康夫会長を大田原市教育委員会事務局に尋ねました。というのは、那須塩原市の生涯学習課に歴史研究会のサークルを尋ねた処、御紹介頂いたからです。


手仕事専科のコンセプトは、「和美との生活」です。伝統的産業「手仕事」を守り、人間らしい生活に復帰することを目的に『”和美(わび)”との生活』を提案しております。和=日本の伝統的な製品と生き方である”和”、美=古の生活の中で育まれてきた美術工芸品と生き方の知恵としての”美”を生活の中に活用することを提唱しています。この考え方が、私のスタートでしたが、最近になり日本の国史や近現代史を学ぶにつれ、その考え方が大きく変わりました。伝統工芸の歴史や伝統工芸品の美しさ、結い等の社会生活の価値観に焦点を当てようと考えていたのですが、それだけでは、成り立たないことを知ったからです。「木を見て森を見ず。」でした。今、森が焼かれようとしている時に樹木のみを見て森の外の世界を知らない愚かさに気付いたからです。

世界の歴史を見ると白人社会の植民地支配と帝国主義による余りに残虐な侵略と圧政があります。絶対王政時代では、弱肉強食です。強い者が正義です。そして、近代に入り世界の金融資本による世界の経済制覇に繋がっています。それの影響下にある白人国家が、第一次世界大戦、第二次世界大戦を齎しています。彼らは、プロパガンダにより「自分たちの大義名分」により世相を作りました。金融資本は、グローバリズムを是としています。彼らの活動にとって国家は妨げであり必要ではありません。しかし、西欧社会そして、全世界を牛耳る彼らは、グローバリズム、改革、競争は安価なものを消費者に届けるとして、正義としています。アメリカの民主党や西欧社会のリベラルな政党、そして、金融資本の覇権のもとにある銀行等です。

日本は、アメリカの6年半も掛けた占領統治でなされた東京裁判史観やWGIPで、自虐史観で一杯にされたのです。そして、それに組したのは、吉田茂に始まる自民党です。社会党や共産党は、更に敗戦利得者として、アメリカの占領統治に従い、戦後の教育界にそのままの観念を継続しました。従来の価値観を持つ人々は、公職追放で姿を消しました。その結果が、国に民族に誇りを持たない現在の日本があるのです。私は、近現代史を知ることにより、旗日には国旗掲揚を行っています。年間を通して、16日の旗日があります。その日に外出をしますが、国旗掲揚の家は、皆無です。皇紀2,600年の歴史を持つ国家が、自分たちの国家、民族に誇りを持たないのです。日本人は、どうしたのでしょうか。これは、羊然として生きて来た教育界の責任だと思います。

小泉純一郎氏は、アメリカのグローバリズムの干渉に従い、数々の改革を行いました。最たるものは郵政改革です。その結果がどうなったでしょうか。今は専従社員が減少しフリーターや自由契約の人々が、巷に溢れています。アルバイトの生活で所帯を持ち子どもを育てられるでしょうか。人口減少は、日本の政策が根っこから誤っているのです。食料自給率が、悪化の一途をたどってもパン食や乳製品等食を辞めません。世界は、江戸時代から続く日本食を健康に一番の食としています。なぜ、従来のその食生活を捨てて、アメリカに追随するのでしょうか。国史を知らない人々により、政治経済が動いているからです。

私の主張「和美との生活」は、これを見過ごすことは出来ません。足元の文化に焦点を合わせることに、更に「世界の動き」を「俯瞰する。」ことです。江戸時代には、陽明学や朱子学が起こりました。学問を行動に移すことです。今日の木村康夫会長から、「那須文化研究会」のコンセプトは、「那須地域における自然・歴史・民俗の調査研究。」「史実から学び、それを未来に繋ぐこと。」と話していました。私の「なぜ、誇りを失ったのか?」の思いに対して危惧を抱いているのを感じました。その意味では、私とのスタンスが異なるのかと思います。私の提唱する「和美との生活」は、歴史の史実をもとに「力が正義」の世界の論理を子ども達や現代世代の人々に伝えることだと認識しています。

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