2021年1月17日日曜日

東山道伊王野「義経街道」から.Vol001

 私は、昭和25年那須町稲沢の生まれです。嘗て幾度かの町村合併がありましたが、那須地区(那須湯本と黒田原)、芦野地区、伊王野地区の3地区に分かれていました。私は、稲沢(伊王野地区)でしたので、帰属意識としては伊王野地区になります。

私の小学校の頃の伊王野(街)は、呉服店がいくつかと肉屋も2軒、クリーニング店、書店、酒屋も数軒、床屋美容室も数軒、金物屋、スーパーマーケット、味噌醤油店、饅頭屋、駄菓子屋、魚屋も2軒、豆腐屋と大きな製材工場も3軒もあり、そして、有楽施設の映画館劇場がありました。その劇場では、有名な歌手や講談師が来たり、映画も良く上映されていました。聞くところでは、春日八郎や村田英雄が来たと聞きます。母の実家が伊王野地区の上郷坂本にありましたので、母の里帰りや夏休みに付いて行き映画を見るのが楽しみで、チャンバラ映画を何度も見ました。映画館の升席でマッチ箱のような平たい箱に入ったアイスクリームが、15円で売られていて、それも楽しみでした。中学校の時には、授業で何かドキュメンタリーの映像と有名な映画を見た記憶があります。24の瞳だったような、野菊の墓だったような。当時の伊王野村はどれ位の住人だったのでしょうか。調べると私の生まれた1950年6,740人とあります。夏や秋には体育大会があり、稲沢、沼野井、伊王野、蓑沢・・・・等の地区に分かれて、部落総出で賑やかでした。盆踊りやお祭りも賑やかでした。その内に高校、大学と進み時折訪れる伊王野の町は、徐々に勢いを無くして、嘗ての商店も賑やかさが無くなりました。そして、今尋ねる伊王野は、道の駅東山道伊王野が賑やかですが、他には、私のご紹介する那須味噌の須藤商店さんぐらいです。本当に見事にシャッター通りに成り果てました。皆、商店を廃業し、サラリーマンの生活になったのでしょう。

手仕事専科の工房

那須の弁慶米  http://tesigotosenka.com/benkeimai.html 

稲の沢みどり米 http://tesigotosenka.com/midorimai.html

那須味噌(須藤商店) http://tesigotosenka.com/nasumiso.html

東山道(伊王野)は、義経街道とも言われます。東山道の繁栄と義経伝説古代から中世にかけて都と奥州の文化交流の幹となった旧東山道。義経街道ともいわれるこの道は、源義経が治承4年(1180年)兄頼朝の平家追討の挙兵に呼応して、奥州平泉を後に一路鎌倉へ向かった道である。この地には義経伝説をうらづける数多くのものが残されている。


東山道(とうさんどう)は、五畿七道の一つ。 本州内陸部を近江国から陸奥国に貫く行政区分、および同所を通る古代から中世にかけての幹線道路を指します。大宝元(701)年に大宝律令(たいほうりつりょう)が制定されると、都と地方を緊密にむすぶ「官道(かんどう)」が整備されました。東山道(とうさんどう)は7つあった官道のうちのひとつで、現在の滋賀県から岐阜・長野・群馬・栃木の各県を通り抜け、宮城県の多賀城からは岩手と秋田両県の二手に分かれた、当時の日本で最も長い道でした。官道には原則として、30里(約16キロメートル)ごとに「駅家(うまや)」と呼ばれる施設が造られました。栃木県内には、7つの駅家があったとされています。近年の発掘調査や研究成果などから、少しずつ東山道の姿がわかるようになりました。当時の東山道は、中央集権的支配を確立するために整備され、軍事目的あるいは経済基盤の確保に大きな役割を果たしました。さらに東山道を経由して、都からの文化や大陸からの技術ももたらされました。この駅家(うまや)について調べましたが、現在の地の何方になるのかの資料は見つけられませんでした。上の地図の古くからの●記の部落には、それがあったのかも知れません。

追分の明神(おいわけのみょうじん)
延暦10(791)年、坂上田村麻呂が征夷の途上で勧請(かんじょう)したと伝えられる。東山道沿いにあり、下野国と陸奥国(むつのくに)の国境(くにざかい)を挟んで護る峠の神様が祀られている。


那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)
文武4(700)年頃、那須直韋提(なすのあたいいで)の業績をたたえ、跡継ぎの意斯麻呂(おしまろ)らにより建立した日本三古碑のひとつ。長らく草むらの中に埋もれていたが、延宝4(1676)年に旅の僧円順と庄屋大金重貞によって発見された。天和3(1683)年には、重貞が記した『那須記』を領地であるこの地を訪れていた水戸藩主徳川光圀に献上し、世に知られるきっかけとなった。現在、笠石神社の御神体として祀られている。
那須神社本殿・桜門
4世紀末頃の創建とも、征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇(おうじんてんのう)を祀って八幡宮にしたとも伝えられている。源義家や那須与一もここで武運を祈念し、江戸時代の俳人・松尾芭蕉も参拝したという。那須氏や大関氏の氏神であり、現在の本殿は寛永18(1641)年に、楼門は寛永19(1642)年に大関氏によって再建された。

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2020年12月4日金曜日

メディア(扇動)からの覚醒.vol001

 メディア(扇動)からの覚醒のタイトルで記そうと思います。近現代史を覗くと江戸時代から明治維新にかけて、多くの謎が浮かび上がります。詳しくは、フーバー研究所リサーチフェローの西鋭夫教授の研究をご覧ください。彼は、多くの著書から、背後にいる「フリー、メイスン」を指摘しています。私はそれをユダヤの金融資本家と同一視しています。世界中にある各国の中央銀行の設立に関わり、世界の富の90%以上を保有していると考えます。数パーセントの人々が、世界の富を独占しているのです。

彼らは、歴史上の大きな転換点において、暗躍しています。史学的な論文ではありませんので、総体的な私の主観になります。明治維新政府の薩長土肥に働いた力やソヴィエトを生み出したロシア革命(ヨーロッパでは、ユダヤ革命と呼ばれています。)にも、彼らの力が働いています。そして、世界大戦時の裏で力を発揮しているのは、彼等です。イギリスもフランスもドイツもソヴィエトも悉くです。第二次世界大戦時に大きな影響を与えたF・D・ルーズベルトの背後には、ユダヤの社会主義者たちが、ブレインとなりルーズベルトの政策に大きな影響を与えました。チャーチルやルーズベルトが、日本の参戦を画策しています。謀略です。彼らは、直接に政策のトップになるのではなく、金融界団体やメディアを通じて世論をも操ります。扇動です。彼らは、毛沢東の中国共産党を支援し働きかけています。

1917年のペトログラード・ソヴィエト会議
彼らの手口は、国政のブレーンとして関わります。民主党のクリントン、バラクオバマ、ジョージ・ブッシュのネオコン等です。そして、ヒラリー・クリントン、ジョン・バイデンです。彼らの軌道を歩む民主党大統領や国務長官が、国政を担ってきました。アラブの春や世界の紛争は、全て彼らの美辞麗句で語られますが、実質は、金融資本家の利益に適うものです。そして、それを語るのはメディアです。扇動です。如何に実際の目的とメディアの美辞麗句が異なるかは、当然です。今の私には、リベラルも改革もその美辞麗句です。ナショナリズム、ローカリズムは、それに対峙する言葉となりました。金融資本家、フリーメイスン、ディープステイツは、彼らの代名詞であり、グローバリストの言葉は、同意語です。

戦前戦後も特に戦後のメディアは、占領統治のアメリカの意のままでした。彼らのなしたWGIP、東京裁判史観で出鱈目な裁判を行い、日本の精神をズタズタにしました。その後もその軌道の上に継続するスキームを作りました。公職追放でその後にユダヤの社会主義者たちのお眼鏡に適う社会主義者を据えたのです。同じく政治は自民党です。吉田茂や岸信介を中心に据えて、アメリカに従う政策を継続させました。現代に続く系譜です。メディアは、オールドメディアです。彼らはGHQのなす検閲によって、悉く言論統制を行い日本人大衆を扇動(洗脳)したのです。もう一つ鍵となる言葉が、「敗戦利得者」です。社会主義者の彼らは、GHQによって得た「利得」を守ることに懸命になりました。それを継続することが彼らの利益に適うからです。GHQのなした嘘捏造の歴史の線上に彼らは、活動し継続したのです。GHQの作った「南京大虐殺」の史実に更に輪を掛けて世界に拡散しました。「従軍慰安婦」も「徴用工」も彼らの生きる為の扇動であり、嘘です。朝日新聞やNHKなどの系譜は現在も継続しています。もう一つは、官僚です。自民党政治の中でアメリカに従属して生きた来た官僚は、元上司のなした政策を非難し覆すことはしません。即ち正しい歴史に基づいた政策対応を行わないということです。彼らの仁義だからです。外務省の闇、なぜに未だに韓国や中国の唱える嘘捏造の非難に反論することをしないのか。アメリカの遺したスキーム(軌道)です。

私達は、正しい歴史を学ぶ必要があります。このような社会で、嘘捏造に生きるアメリカに従属した自民党、親チャイナの公明党、反日親朝鮮の野党の政治に戦前の歴史を担った政党が存在しない政治で、同じ反日のメディアの扇動する情報に埋もれて生きることは、大変な事です。私の知る教育者たちは、真実の日本の近現代史を学ぶことなく、世間一般のGHQのなした歴史観の上に教育に携わってきました。恐ろしいほどに教育者としての魂を失った人々です。かつて、高校生の時に社会科の先生が言いました。経済は有用な学問だが、古典や歴史は、益を生まない学問だと。私もそう思ってそれからの40数年を生きてきました。昨今の旗日に国旗掲揚をしない、慶事にオリンピックの国歌斉唱で国家を歌わない選手を見て、その考えが誤りだったと確信しています。歴史を国史を学ばない民族は、誇りを持たず精神力のない民族となります。私達日本人は、魂を失った民族になりました。真実の歴史を学ぶこと、父祖の歴史を知り学ぶことが、民族の誇りを取り戻すことになります。真実の歴史を学び、現代を考え、未来に繋ぐこと、これからの私の為すべきことです。

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2020年11月22日日曜日

「史学の勧め」Vol001

 高校時代を振り返ります。当時社会科の先生が居られましたが、私の参加したクラブ活動の顧問で人気のある方でした。社会科の授業で「経済学は有益だが、古典や歴史は生産性がない科目だ。」と言っていたのを思い出します。女子高の担任だった時に見初めた教え子の女性と後に結婚し、お二人のお子様にも恵まれました。そして、お二人とも揃って東大を卒業されたと聞きます。私の好きな尊敬できる先生でした。先生が社会科の授業で述べたことも当時もその後も同じように思っていました。歴史に対する経済の優位性です。


しかし、昨今は旗日に日章旗を掲揚しない家が当たり前になり、国際大会の金メダリストが国歌斉唱で口を開かない姿を見ます。隣国三カ国の反日報道、従軍慰安婦や徴用工問題、南京大虐殺の非難を聞き、国内の大手メディアから有識者のそれらを是認するコメントを聞きます。総理大臣が靖国に参拝することにも非を唱え、アメリカのジョーバイデンやヒラリークリントンが、それらの非難に追随したコメントを出しています。巷では、アメリカが言うことだから、正しいのだろうと思う世論が作られています。それ程に日本は、戦後75年が経過するのに未だに非難されるほどの悪いことを戦前にしていたのでしょうか。

私は、歴史や政治については、無関心で生きてきました。国際問題や教育は政治家や歴史家に任せていれば安心と思っていました。それが、長いサラリーマン生活をリタイアし、自由な時間が得られそれらの歴史を知る機会が増えました。facebookでは、ネトウヨとパヨクと言われる人々が、賑わっています。フェイクニュースも当たり前の人達と思っています。それでも、真摯に投稿している人達もいるのですが、玉石混淆のようです。それらの投稿から、自分なりに歴史を振り返るようになりました。その結果、私達が任せていた政治や学んだ歴史観が、とてつもなく酷い惨状であることを知りました。高度経済成長期は、経済の富を求めることが、筆頭に来る課題でした。私もサラリーマン時代を昇進と給料の増えることだけに邁進していました。それが、今になり誤りだったと気づきました。冒頭に述べたように旗日に国旗掲揚をしない家が当たり前になり、国歌を歌うことが格好悪いことになってしまった最大の要因です。

幾つかの一級資料と言われる史実に基づき真摯に編纂された歴史書を紐解くと戦前戦後の大東亜戦争の経緯と戦後の連合国による占領統治や東京裁判が違法であり、彼らの唱える歴史が、全くの嘘捏造だったことが明白となります。それが未だに自国民によって、続いていることにその問題の根の深さと悲しさを覚えます。一見、経済能力は優位に思えますが、人の根幹をなす精神は歴史と文化から作られ育まれるからです。日本人の世界に鑑たる素晴らしさは、その長い歴史から培われてきた精神性です。高校時代に誤って思っていた文化と歴史の大切さを今思い知りました。「敗戦利得者」なる言葉も知りました。日本人の徳目に「寡黙にして語らず。心理は自ずと明らかになる。」があります。この徳目は、世界には通じません。悪い輩は、「息をするように嘘を吐く。」のです。寡黙であっては、成りません。「学問の勧め」ならぬ「史学の勧め」を提唱します。私達の現在と未来に苦根を残さないために。

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2020年11月20日金曜日

「君が代を歌わない」、「国旗掲揚を行わない不思議」

 時折に「国旗掲揚」されないことをfacebookに投稿していました。記紀に始まる日本の歴史を振り返り、「国旗・日の丸の旗」の歴史や読み人知らずの「君が代」の歴史を知ります。「君が代」は10世紀に編纂された勅撰和歌集『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として、世界で最も古い国歌と言われます。それ程に歴史のある国歌と国旗ですがが、何故かオリンピックの表彰台で栄えある選手の歌声を聞くことはありません。おなじく旗日と言われる国旗掲揚の日が年間16日あるのですが、その日に国旗掲揚する家庭を見ることは一度もありませんでした。私にしても国旗掲揚の日の丸の旗と国旗竿を準備したのは、一昨年です。それ以前には数年前にある町内の家で一軒だけ見ることがありましたが、広島県御出身の方で、大きな会社の役員を務めた居られた方です。その方がお歳を召されたからか最近その家に掲揚を見ることは無くなりました。

下野・会津・津軽の歴史街道として、ブログを書いています。手仕事専科の工房の歴史を尋ねると古くは600年代の朝鮮からの帰化人にまで遡る手仕事も、また、正倉院の建物や宝物にまで遡るものとなりました。当然、手仕事が一朝一夕に生まれた訳ではなく、背景にはそれがうまれて来た脈々と流れる歴史を見ることが出来ます。私には悲しいことがあります。その手仕事の歴史を知るうちに日本の記紀に始まり記された歴史が世界でも類稀な歴史であることを知ったからです。それが、その歴史に記される素晴らしい国歌、国旗が、日本民族の末裔である我々の時代に”疎んじられている”姿を見るからです。なぜに現状のような姿になってしまったのでしょうか。

私は昭和25年の生まれです。物心つく小学生の頃は旗日には、適当な長さの真竹に国旗と国旗金玉を載せて、縁側の柱に括り付けて掲揚していました。勿論、小学校や全ての役所でもです。中学、高校でも近現代史は、3学年の後期の授業となり、殆ど第二次世界大戦のことを詳しく学ぶ機会はなかったように思います。漠然と第二次世界大戦は日本の軍部が独走して始めた戦争で、ドイツ、イタリア、日本がファシズムによる悪の国家で民主主義の米英仏等が正義の戦いをしたと理解していたように思います。2発の原爆も東京大空襲や東京裁判も正義だったと。日本を戦争に導いた人達が、正義のアメリカ、西洋諸国によって裁かれたのだと。周囲にはどこにもそれに異を唱える人達も教育者も見ることはなく、アメリカは、素晴らしい個人の自由と権利をまもる民主主義の国家だと思い疑うことはありませんでした。大学に進んでも全共闘の学生たちの活動にも耳を貸さずにいました。なぜ、彼等が共産主義国家の主義主張に共感するかが分かりませんでした。

それからは、政治や教育、歴史には我関せずでサラリーマン生活を過ごしてきました。私の性格が由来したのかと思います。上席に従順な生き方となる公務員と教職員にはならないと決めていたからです。30年のサラリーマン人生を終え、その後に自由な伝統工芸品、伝統食品の通信販売である「手仕事専科」を立ち上げました。還暦の時です。そして今、古稀を迎える年代になり、中国や韓国の日本を非難する「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」の声を聴き、サラリーマン時代に不思議に思っていたことがありました。私たち日本人は、そのような酷いことをして来たのだろうかということです。日本軍の規律は厳しかったと聞いていました。そのようなことから、靖国参拝を唱える人達の声を聴き、それらの史実を学ぶ機会が増えてきました。渡部昇一氏は多くの著書で近現代史を書いていますが、彼が主張する史実は、真実に近い常識的なものと受け止めています。彼は元々は英文学者です。歴史家から見ると彼の史実に異を唱えることもあるかも知れませんが、主流に置いては間違いではないだろうと思います。彼等の唱える史実は、正しい理解だろうと思います。世界が如何に自国の利益の為に動いているかが分かります。そこには正義の一欠けらもありません。その史実からは、英米仏の西洋諸国、共産主義国家ソヴィエトや中国が、悪の権化であるかが見えてきます。それにただ一国の日本国だけが対峙したことが分かります。その素晴らしい意気地を持つ日本国の私達の先人が、何故にこれほどの賤し目を受けなければならないのか、それが私の憤りです。未来の人達の為に戦い死んでいった彼等の守ろうとした末裔の私達が、先人に感謝し敬わず弔うこともしないなどとはあり得ないことです。

アメリカのなした洗脳です。詳しくは別の項で触れますが、自分たちのした劣悪非道なことを隠蔽し日本を悪の権化として日本人に刷り込みました。かつての日本の正しい歴史の記録を焚書として葬り去りました。その嘘と捏造の歴史をひろげたのは、戦前からの社会主義者達「敗戦利得者」であり、同時に公職追放で黙してきた人々や自民党政治です。彼等は、アメリカの都合の良いことに与し、日本人の誇りや歴史、国益に反することを是としています。明治を作った人々には無い精神です。彼等は、如何に白人列強諸国から日本国を衛かを思い政治にかかわった人々です。「報国の士」です。

「憂国」の言葉があります。古稀を迎える齢となり、今更ながら、正しい史実を知らない人達や子ども達に広く知らしめ日本人としての誇りと夢を持つ子供たちを育てたいと思います。

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2020年10月26日月曜日

「種を蒔かなければ」-那須文化研究会Vol003

 ネクストリーダーという啓蒙のブログがあります。株式会社ダイレクト出版社の販促のものですが、「種を蒔かなければ、欲しいものは手に入らない。」というタイトルで書かれていました。

私は栃木県那須郡那須町大字稲沢の生まれ育ちです。田圃2丁歩、畑も8反歩と山林は10丁歩を超えて持つ、旧伊王野村では米100俵を供出できる有数の農家でした。私の生まれた昭和25年頃には、曾祖母キンと祖父母兼次郎、ヨシがおり、両親と子供6人、叔父叔母合せて13人の大家族でした。盆暮の親戚の者が帰省すると20人を超える宴となりました。キンの夫の音松は54歳で急逝していますが、琵琶池の田口の出で、兄弟は近在のそれなりの家に婿に入りました。音松はじめ皆優秀な人物だったようです。嫁ぎ先の地域でも一目置かれる人物として名を馳せたと聞きます。氏家に婿入りした方は、実業家で籾殻の選別機で特許を持っていました。同じく、大田原市の平沢に婿入りした方も優秀で地域で代々一目置かれる開明的な農家になっています。我が家の音松も新参者でしたが、この稲沢部落では一目置かれていたようです。ある時我が家で音松の法要が営まれその折に琵琶池の田口出の者達が7,8人で来られましたが、驚きました。皆揃って私の叔父叔母や大叔父の子ども達にそっくりな顔立ちなのです。宴席に並ぶ叔父叔母は「あれまあっ!」と顔を見合わせていました。血は争えないものですね。叔父叔母の従妹や再従兄弟姉妹にあたります。私のご先祖は、越中富山の砺波地方から琵琶池を経て、明治の初めにこの稲沢の膳棚の地に入植しました。父の代で4代目と言います。砺波地方のお寺に家系図があり、父はそのルーツを尋ね、その家が代々八田藤四郎を名乗り、半農半士の足軽だったと調べてきました。この膳棚の地は谷地ッ田という湿地で両郷の浄土真宗のお寺の地所だったと聞きますが、山林の一部は越堀の藤田郵便局長の土地だったようです。長年小作をしていましたが、こつこつと貯めて祖父母の兼次郎、ヨシの代に完済し、現在の土地を持つ有数の農家になりました。那須文化研究会の木村会長の話すには、富山県人たちは、湿地を好んで入植したようだといいます。お米が美味しいのが湿地です。琵琶池や江川沿いの村々も湿地になります。この膳棚の地も紛れもない湿地でした。旧奥州街道近くになる古くから住む稲沢の人々は、高地(台)に住み着き物事の変革は気性的に苦手だったといいます。それに引き換え、富山県人たちは、開明的で起業家だったともいいます。越中富山の人達は敬虔な浄土真宗(一向宗)の門戸です。私の性格からその血が流れているのを感じます。

農家に生まれ子どもの頃から、父や母、祖父母の仕事を見て育ちました。茅葺屋根の背後に山を背負い、孟宗竹や真竹を風除けに植えて、小さな沢が山裾の端を流れており、そこから水を庭の浮島のある池に引き、一寸した和風庭園ですが、いつも冷たい水が「筧(竹の筒)」から、池の受け桶に豊富に流れ落ちていました。我が家に来る人々はその水を手酌で汲みその冷たさと美味しさに声を上げていました。夏には、西瓜やトマトが冷やされていました。私たち子どもは一年を通して毎朝その水で顔を洗っていました。流れる水を手に受けて顔を洗う、シャキッとする瞬間です。竹藪からは、旬には筍が取れて、その美味しさは有名でした。土地が肥えていたのでしょう。背後の山と南を向いた窪地のせいで暴風雨でも災害に会うことはありませんでした。この暮らしの生活方法は、富山人の長い入植からの智恵だと思います。この優れた地のことは越中富山の薬売りの情報からだと思います。彼等は全国に情報網を持っていたようです。私が記憶に残るのは、私は次男坊で母が22歳の時の子ですから、私が5、6歳の頃に思い出す母は、20代後半の若い女性でした。あまり美人とは言えませんが、色白で小柄ながら豊満な女性で勉強も良く出来る賢い女性でした。母の兄になる二十何歳か年の離れた伯父の文右衛門には、随分と可愛がられたと聞きます。姿格好は、農家の嫁でしたから絣や縞の着物を纏いモンペに手拭いを姉さん被りにしていました。私や長女娘や孫が色白なのは母似だからです。いつも何かの農作業をしていましたので、白い顔や胸を火照らせて、手拭いで汗を拭っていました。父と母の二人で朝早くに草刈りに出かけ、春先には馬を使い水田の荒くれ掻きや田植えの準備をしていました。田植えは、村内の人達が結で来られ、隣部落から多くの人達が手伝い人夫で来られていました。農繁期には、昼時や囲炉裏と土間がそんな女衆と男衆でいっぱいになりました。早苗饗の最後には、宴会となりました。興に乗り祖父兼次郎が詩吟を詠じて踊っていたのを思い出します。曾祖母のキンや祖母ヨシの着物は色味こそ年齢に応じて地味でしたが、同じく着物とモンペの格好でした。これが農家の標準着です。二人とも琵琶池と隣部落藤沢の高橋の家の出です。同じく越中富山からの人々だと聞きます。二人ともそろって働き者で、80歳を過ぎても朝早く4時頃から畑に草取りで出かけていました。蚋(ブヨ)に喰われない時間帯だからです。それでも顔中を喰われて瞼も赤く腫れて目が見えない程になっていました。私達は6人兄弟として育ちましたが、兄、私の後には妹が3人と弟がひとり生まれ育ちました。実際は、3男の弟の後に4男の子が宿りましたが、水子になりました。当時であっても6人の子どもは多過ぎたのでしょう。私達はそのことを知りませんでしたが、ある時母が水子供養をしているのを見て知りました。そして、その後に最後の女の子が宿り、泣いて母が父に産むことを迫ったと聞きました。その子は、もうじき60歳近くになりますが、性格や顔立ちは叔父叔母に似て、綺麗な賢い女性になりました。

那須町大字稲沢小字膳棚の
水田風景です。この右の杉林の窪地に
お墓があります。
現在は、4軒の家の共同墓地です。
祖父兼次郎の好きな葱味噌です。
葱の美味しい時期に作りました。
懐かしい味ですが、娘が好んで
食べてくれます。

ブログのテーマ「種を蒔かなければ、欲しいものは手に入らない。」は、人生を生きる上で鍵となります。農家育ちの私には、「種を蒔く」は、「目的」に向かい行動を起こすことを意味します。「収穫」は「目的」です。

私達は、あまりに受動的な生き方をしています。種を蒔かずに収穫だけを望む生き方です。TVのスイッチを入れると次から次に偏向(遮光)されたニュースが流れ、国民を扇動する政治ショーが映ります。そして、タレントといわれる著名人が意見を述べています。その問題には関係のない専門外の人々の意見です。私は首を傾げざるを得ません。番組制作の担当者の筋書きに載ってです。すべてがバラエティ化した番組です。数パーセント支持率の野党が、立憲民主党や共産党が、与党を非難しています。そして、メディアが挙ってさも正論であるかのように取り上げて放映しています。ニュースは全てがメディアの意のままに切接ぎして作ります。さも真実のように事実を反対にすることまでも印象付けて行います。現代日本のメディアは、何食わぬ顔をして恐ろしい人々です。かつてTVが普及した際に「一億総白痴化」が言われたことを思い出します。国家の政策は、私達の思いとは異なり空滑りする方向に向かいます。コロナ禍の10万円一律配布など愚の骨頂です。野党やメディアは、政治スキームのことなる国々の一部を取り上げて、政権を攻撃します。年金生活者や公務員などの人々は、何ら影響を受けていません。そのような金は不要です。世相に沿わなければ、政権維持が危ういからです。しかし、国民はそれほどに馬鹿じゃありません。その証拠に何でも反対の野党の支持率をご覧ください。SNSやメディアで取り上げられて、扇動の道具とされていますが、それは、真実とは程遠いものです。日本社会は高度に統合された社会です。問題解決に黒い糸を一本引き抜こうと思っても多くの糸が絡み合い解れることはありません。全てが絡み合っているこの社会は、何を鍵にして解すことが出来るのでしょうか。私には分かりません。

しかし、「鍵」は、時間です。育成する「時間」が「鍵」となります。解けなかった柵の絡む糸が、面白いように解れてくると思います。つまり、「種を蒔くこと」が「鍵」になるように思います。この世の中を未来の社会を「幸せな社会にする目的」として「種を蒔きたい」と思います。生きている今、種を蒔かなければと思います。那須文化研究会では、史実から真実を読み解き未来に繋ぐとしています。私は、未来の為に今、子ども達に伝えたいと思います。「日本の真実の史実」を。「欧米によって捏造され目に触れて来なかった日本の誇り高い真実の歴史」を。

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2020年10月23日金曜日

ルーツ-那須文化研究会.Vol002

昨日は、那須文化研究会の木村康夫会長を大田原市教育委員会事務局に尋ねました。というのは、那須塩原市の生涯学習課に歴史研究会のサークルを尋ねた処、御紹介頂いたからです。

冒頭は、名刺交換からでした。私は、手仕事専科のwebsiteを運営しており、那須ビューホテル時代に尾島利男先生の薫陶を受け、下野地方の伝統工芸や民俗芸能に触れたことからだと。木村会長は、教諭を長年なされており、国語担当だったと言います。大田原高校卒の1学年後輩になり、私の知っている1学年上級の稲沢道夫氏や同級生だった鈴木勝男氏と那須高校教諭時代に同僚として感化を受けたと言います。彼らを知る私には、優秀だった彼等ならではと想像できます。

家から眺める水田風景
右の杉林は、茅野に植えられたものです。

八重さんちという場所に建てられた家。
子どもの頃はここは、
向かい側の陽当たりの良い畑でした。
ホウレンソウや馬鈴薯、人参などが植えられていました。
私の5,6歳の頃の思い出です。
その後、お茶が植えられて、茶摘みをした思い出があります。

お墓参りに止めた愛車。
私の兄の代で越中(富山県)砺波地方から移住して5代目となります。砺波では、代々八田藤四郎という家だそうです。江戸時代から明治に移行する頃に一時大田原市の琵琶池に住みその後今の地、稲沢(膳棚)に移ってきました。琵琶池や福原の江川から湯津上に続く地域は同じくと富山県からの人々が住みついていたと言います。富山県人は敬虔な浄土真宗(一向宗)の信者で県民性というのか、事業欲がありいろいろな事業を行って開明的な人々だと言います。私の曽祖父、音松の兄弟は皆他の地区に婿に入り、発明特許を取得し事業家だったと聞きます。兄弟だった平沢の鶴野氏は、同じく開明的な人だったようです。私の曾祖母や祖母は同じく佐久山の出身で浄土真宗の信者です。朝晩、折あれば仏壇に向かっていました。私も子どもの頃は、彼岸やお盆の時に仏壇の掃除は毎度のことでした。晴れた日に縁側に並べて灰汁を使い仏器を奇麗に磨いていました。朝のお仏器でのご飯のお供えや線香をあげるのが子どもの頃の私の日課でした。ルーツという言葉があります。祖父母の背中を見て育ち、私のルーツは、越中(富山県)にあります。私に流れている血は紛れもない越中富山人の血だと感じます。

木村会長の話から、かつてこの土地の家が萱葺屋根だった頃は、会津地方から、萱葺の職人たちが、農閑期に出稼ぎに来たという。私の住む稲沢部落には茅野という入会地があり、多くの人達が参加して、屋根の葺き替えを交代で「結い」で行っていました。その後、多くの家が萱屋根からトタン葺きや瓦に代わり共有地は必要なくなりました。そして、不動産として都会の何方かに売られました。私の子どもの頃に幾度か屋根の葺き替えを見ていました。57坪の農家です。縁側があり土間の台所と囲炉裏があり、広間と座敷、納戸と4畳の間がありました。仏壇は、座敷に造られて浄土真宗の豪華なものでした。数日間掛けて村中の人々が来られて作業をしていました。村の誰か知る人が指図していました。それまでには準備として萱や藁、葦を集めて、束ねて一か所に積んでいました。

木村会長は、私の伝統工芸品と民芸品、伝統食品の通販で160もの工房があることから、それらの工房の歴史と那須地方との関りとを調べられては如何かといいます。ひとつのテーマとなることが考えられます。郷土史と伝統工芸の歴史です。私の新しい視点になりそうです。

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2020年10月22日木曜日

那須文化研究会のこと。Vol001

 今日は、那須文化研究会の木村康夫会長を大田原市教育委員会事務局に尋ねました。というのは、那須塩原市の生涯学習課に歴史研究会のサークルを尋ねた処、御紹介頂いたからです。


手仕事専科のコンセプトは、「和美との生活」です。伝統的産業「手仕事」を守り、人間らしい生活に復帰することを目的に『”和美(わび)”との生活』を提案しております。和=日本の伝統的な製品と生き方である”和”、美=古の生活の中で育まれてきた美術工芸品と生き方の知恵としての”美”を生活の中に活用することを提唱しています。この考え方が、私のスタートでしたが、最近になり日本の国史や近現代史を学ぶにつれ、その考え方が大きく変わりました。伝統工芸の歴史や伝統工芸品の美しさ、結い等の社会生活の価値観に焦点を当てようと考えていたのですが、それだけでは、成り立たないことを知ったからです。「木を見て森を見ず。」でした。今、森が焼かれようとしている時に樹木のみを見て森の外の世界を知らない愚かさに気付いたからです。

世界の歴史を見ると白人社会の植民地支配と帝国主義による余りに残虐な侵略と圧政があります。絶対王政時代では、弱肉強食です。強い者が正義です。そして、近代に入り世界の金融資本による世界の経済制覇に繋がっています。それの影響下にある白人国家が、第一次世界大戦、第二次世界大戦を齎しています。彼らは、プロパガンダにより「自分たちの大義名分」により世相を作りました。金融資本は、グローバリズムを是としています。彼らの活動にとって国家は妨げであり必要ではありません。しかし、西欧社会そして、全世界を牛耳る彼らは、グローバリズム、改革、競争は安価なものを消費者に届けるとして、正義としています。アメリカの民主党や西欧社会のリベラルな政党、そして、金融資本の覇権のもとにある銀行等です。

日本は、アメリカの6年半も掛けた占領統治でなされた東京裁判史観やWGIPで、自虐史観で一杯にされたのです。そして、それに組したのは、吉田茂に始まる自民党です。社会党や共産党は、更に敗戦利得者として、アメリカの占領統治に従い、戦後の教育界にそのままの観念を継続しました。従来の価値観を持つ人々は、公職追放で姿を消しました。その結果が、国に民族に誇りを持たない現在の日本があるのです。私は、近現代史を知ることにより、旗日には国旗掲揚を行っています。年間を通して、16日の旗日があります。その日に外出をしますが、国旗掲揚の家は、皆無です。皇紀2,600年の歴史を持つ国家が、自分たちの国家、民族に誇りを持たないのです。日本人は、どうしたのでしょうか。これは、羊然として生きて来た教育界の責任だと思います。

小泉純一郎氏は、アメリカのグローバリズムの干渉に従い、数々の改革を行いました。最たるものは郵政改革です。その結果がどうなったでしょうか。今は専従社員が減少しフリーターや自由契約の人々が、巷に溢れています。アルバイトの生活で所帯を持ち子どもを育てられるでしょうか。人口減少は、日本の政策が根っこから誤っているのです。食料自給率が、悪化の一途をたどってもパン食や乳製品等食を辞めません。世界は、江戸時代から続く日本食を健康に一番の食としています。なぜ、従来のその食生活を捨てて、アメリカに追随するのでしょうか。国史を知らない人々により、政治経済が動いているからです。

私の主張「和美との生活」は、これを見過ごすことは出来ません。足元の文化に焦点を合わせることに、更に「世界の動き」を「俯瞰する。」ことです。江戸時代には、陽明学や朱子学が起こりました。学問を行動に移すことです。今日の木村康夫会長から、「那須文化研究会」のコンセプトは、「那須地域における自然・歴史・民俗の調査研究。」「史実から学び、それを未来に繋ぐこと。」と話していました。私の「なぜ、誇りを失ったのか?」の思いに対して危惧を抱いているのを感じました。その意味では、私とのスタンスが異なるのかと思います。私の提唱する「和美との生活」は、歴史の史実をもとに「力が正義」の世界の論理を子ども達や現代世代の人々に伝えることだと認識しています。

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