2015年11月6日金曜日

古峯神社の石碑

仕事専科のお取引工房は、会津には、たくさんあります。
会津木綿会津漆器会津本郷焼イゲタ醤油起上り小法師赤べこ、・・・・。
いつも289号線を下がり、下郷から、塔のへつりへ抜ける山道沿いに石塔が、鎮座していました。
よくみると古峯神社と彫り抜いてあります。在の講中・崇拝者の方々が、建立されたものと思います。
会津若松市内につづく大戸地区には、しっかりとした石塔があり、天狗の面が掛けてありました。
天狗は、古峯神社の御祭神の使者といいます。
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古峯神社(ふるみねじんじゃ)は、大芦川の源流に近い渓間、優美を醸す山麓に鎮まる。
御祭神に日本武尊をいただく開運・火防・海上安全・交通安全等の御神徳高い神社です。
日光山開山の祖、勝道上人がここで修行をつまれたことから「日光発祥の地」とも呼ばれております。
御祭神の使者である天狗は崇敬者にふりかかる災厄を除災するという信仰を集めており、講中・崇敬者は遠く全国より日帰り参拝、参籠宿泊参拝の方々で連日社頭は賑わいを見せます。
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2015年7月6日月曜日

甘露山妙雲寺をたずねて

塩原温泉には、有名が禅寺があります。
いつも利用している「水車(みずぐるま)」さんのすぐ隣のおてらですが、牡丹祭りが、有名です。
すぐそばの水車までは、いくども訪ねていたのですが、妙雲寺をたずねるのは、初めてでした。
ダンスのサークルメンバーとで境内を散策いたしました。
静寂な境内は、ちょうど雨曇りのしっとりとした雰囲気で、心洗われる気持ちで散策いたしました。

縁起によると-------------
下野国甘露山妙雲寺縁起解説         
この寺は小松内府重盛公の姨妙雲尼公の開基です。釈迦如来立像は栴檀香木の毘首羯摩の彫刻によるところで、小松内府の仰ぎ奉った霊像であり、朝廷の三釈尊と同じ作品で随一なりと言われています。源平合戦のはじめの寿永(一一八二)頃、平家が一ノ谷の戦いに敗北して一族ことごとく流離しました。時に源頼朝は海内に脅しを振るい権限を欲しいままにし、日本国内の幾千里、身を隠す地も無く、平氏をさがし赤子にまで罰をあたえました。しかし平氏の家臣筑後守貞能は、元より宇都宮朝綱と身内の関係があったゆえに妙雲尼公を誘って、まさに宇都宮に赴かんとしていました。平重盛の遺愛していた釈迦如来立像を置き去りにする事に忍びず、これを笈の中に入れ自ら背負って宇都宮にきました。逃れてきた事を宇都宮朝綱に相談しました。朝綱は鎌倉の源頼朝の許しを求めたが、頼朝は平貞能を恐れていました。それで宇都宮城内に留めることは成らず、はるか我が領内の藤原山中に送り住まわせました。

 その後、影をひそめて二年余り、ここに平貞能自ら「山浅くして人里の居る塩原に移すことが望ましい」と言いだし藤原山中を離れました。大きな樹木の危険な所をよじ登り、断崖を行ったり来たり登ったり、あるいは蔦かずらの茎を払いながらそばたつ壁を道として、ようやく塩原の山陰の小滝仏沢にたどり着きました。藪や草を刈り茅葺きの庵を造り釈迦如来立像を安置し、その地で、常に日本の国が良くなることを願って、平家天界の供養を施していました。大自然の中で樵をして良い薪をつくり、醴泉甘冷にして身を清め、川原の岩の割れ目から霊湯(名湯)が湧き出ている温泉に入り体を癒しました。傍ら台地(月夜川)のワラビを採り葛を堀り住んでいました。

 遠く湯源の仙境(門前)に憧れその土地に飛来しました。いささか住み慣れ、信仰の心を朝の花の紅に染め、教えの心を夜灯の輝きに照らし事も無く、幾多の年月が過ぎ妙雲尼が死去しました。その法名を以て寺に扁して妙雲寺と称号しました。その後、正和年間(一三一二から一七)、大同妙喆と云う人がいました。旧奥州最上の人で、法を佛国国師から嗣ぎ、まことに学識を納め五山の俊才でした。たまたま、日光山(高原山)中に悪龍がいました、わずかに湖水(塩原村)に触れたちまち雷を起こし、疾風を起こし高木を抜き怪石をもぎ取り、村人を常に困らせたと聞かされました。大同妙喆和尚自らこの山頂(甘露山)に登り、その湖面(妙雲寺)を見れば、釈迦如来霊像を拝し霊庵の余りにも寂寞を見て、去るのに忍びず村人に説法を施し、一喝を与えました。これにより悪龍が己から降伏して住民に災いが無くなりました。遂に錫を留められ十方の信仰により、七堂伽藍を建て尼寺を改めて甘露山妙雲寺と称しました。この所にようやくその面目を一新して法灯を樹立しました。

 宇都宮領主貞綱の庇護により潤ってきたところ、戦国動乱の時代に入り浄財も布施も無く、細々と住持や村人の篤い信仰により、甘露山妙雲寺の法灯は、三百有余年守られてきました。しかし文禄年中(一五九二から九六)世の中の乱れの災難に遭い、七堂伽藍は瓦礫の場となり、すべての甘露山妙雲寺の古文書や縁起書類は焼失し、只々、本尊釈迦如来立像のみが難を逃れました。凡そ甘露山妙雲寺創建より寛文六年(一六六六)に至るまで、計るに四百八十年間、古老の口伝によつて大略を記しました。以上の通り、宇都宮城主奥平忠昌様に広く理解をいただき、そのあれた甘露山妙雲寺の欠けたところを補修して頂きました。寛文六年二月、甘露山妙雲寺住持紀泰首座の求めによつて、神護山興禅寺に於いて関林和尚が書き表しました。
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2014年12月25日木曜日

雲厳寺の境内

雲巌寺(うんがんじ)は、栃木県大田原市雲岩寺にある臨済宗妙心寺派の寺院。
山号は東山。本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。
開山は高峰顕日(仏国国師)、開基(創立者)は叟元和尚(寺伝)。
雲巌寺は大治年間(1126年~1131年)に叟元和尚によって開基され、1283年(弘安6年)に時の執権・北条時宗を大檀那とし、高梨勝願法印の寄進のもと仏国国師によって開山されたといわれる。その後1578年(天正6年)に無住妙徳禅師が住職となった折に宗派を臨済宗妙心寺派とした。
建築物は1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐の戦火で焼失するも数年後には再建され、またその後1847年(弘化4年)に火災に遭うも1849年(嘉永2年)に再建されている。
1912年(大正元年)、築300年を超えた仏堂の改築工事が始まり、1922年(大正11年)に竣工した。
雲巌寺はまた、松尾芭蕉が奥の細道紀行で立ち寄った寺院としても知られ、寺域には当時の住職であった仏頂禅師と芭蕉の歌碑がある。
歌碑には
竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば (仏頂和尚)
木啄も庵はやぶらず夏木立 (芭蕉)
の句が刻まれている。
なお、この歌碑は、1803年(享和3年)に建てられたものを、1879年(明治12年)に再建したものと謂われる。
聖福寺(福岡県福岡市博多区)、永平寺(福井県吉田郡永平寺町)、興国寺(和歌山県日高郡由良町)とともに禅宗の四大道場とされる。
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今日は、友人を伴い旧黒羽町にある臨済宗の雲厳寺を訪ねました。
その佇まいは、大関家の菩提寺「大雄寺」とは、異なりより厳しい空気を漂わせています。
芭蕉の句碑「木啄も庵は、やぶらず夏木立」が、ある所でも知られています。
大きな庭石が、力強くはいちされて、さぞかし名のある庭師の創られたものと思います。
随分と昔からですが、バス停に「おれが危ない」の看板があります。
それを見ると「自分のこと」と思ってしまいます。
手仕事専科では、雲厳寺との直接のかかわりは、ありませんが、その日本の文化を訪ねる際には、避けては通れない仏教の門のように感じます。
仏堂:1912年(大正元年)、
築300年を超えた仏堂の改築工事が始まり、
1922年(大正11年)に竣工した。
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2014年1月5日日曜日

観音沼の嶽観音と大松川のお不動さま2014.01.04

きょうは、観音沼と道中の「お不動さま」を訪ねました。
なんど伺ったかは、わからないほどに観音沼は、訪れています。
会津への道中です。
手仕事専科でのご褒美です。
四季折々の観音沼は、美しい姿を見せてくれています。
また、289号をさらに進むといつも「お不動さま」直売所があって、気になっていました。
縁起は、わかりませんが、雪中のお堂を写真に撮ってきました。
ご覧ください。

嶽観音の祀られている神社
坂上田村麻呂の創建といいます。















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2012年8月5日日曜日

雲照寺の観音像

先日は、茶の間で英会話のあとに「雲照寺の観音像」見に行ってきました。今日の英会話に参加していたお友達の方が時間がありそうなので、嘗て自分の訪ねたいと思っていた観音像を紹介がてら拝見しようというものでした。
私の下野・会津・津軽 手仕事専科には、石仏があります。作家の大久保さんから、こちらの観音像を教えていただいていたのが、その理由でした。
詳しい縁起を存じ上げないので、写真等でのみご紹介いたします。
十善山 雲照寺
〒329-2745 栃木県那須塩原市三区町六五九番地

明治二十年五月五日、傑僧として名高い雲照律師により開山。
本尊は大日如来、脇立ちは不動明王、愛染明王である。

【雲照寺縁起】
 古くから不毛の原野であった那須野が原の、特に西原と呼ばれるこの一帯は砂利層で覆われているため水に恵まれず、作物にも適さない土地柄であったが、明治十年代半ばになって当地に民間結社の那須開墾社、あるいは三島通庸・松方正義・大山巖など元勲諸公の農場が開かれた。とりわけ日本三大疏水の一つに数えられる、那須疏水の開通(同18年)により水利が確保されてからは、全国から、多くの入植者が集まって開墾事業が軌道に乗るのである。
さて、生活の安定が計られたうえは、信仰の拠点、心の拠り所としての寺院が不可欠であった。そこで那須開墾社社長の印南丈作ら指導者は雲照和上に新寺建設を請願、同時に開墾社は用地を、地元の人々は惜しみない労力を提供して雲照寺が建立されたのである。
 その後、律師の弟子、二世隆應和上の願いで西国観音霊場の本尊を写した石仏三十三体、親観音の准胝観音等が建立され、明治四十年までには「雲照寺石仏観音霊場」が完成する。また、この准胝様は『那須三十三所観音霊場』第十六番の御本尊である。
 本堂西側の講堂は年間を通じて各種研修に用いられ、精神修養の道場ともなっている。そして境内は静寂が包みこみ、訪れる善男善女の心を洗い清めている。

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