2020年10月23日金曜日

ルーツ-那須文化研究会.Vol002

昨日は、那須文化研究会の木村康夫会長を大田原市教育委員会事務局に尋ねました。というのは、那須塩原市の生涯学習課に歴史研究会のサークルを尋ねた処、御紹介頂いたからです。

冒頭は、名刺交換からでした。私は、手仕事専科のwebsiteを運営しており、那須ビューホテル時代に尾島利男先生の薫陶を受け、下野地方の伝統工芸や民俗芸能に触れたことからだと。木村会長は、教諭を長年なされており、国語担当だったと言います。大田原高校卒の1学年後輩になり、私の知っている1学年上級の稲沢道夫氏や同級生だった鈴木勝男氏と那須高校教諭時代に同僚として感化を受けたと言います。彼らを知る私には、優秀だった彼等ならではと想像できます。

家から眺める水田風景
右の杉林は、茅野に植えられたものです。

八重さんちという場所に建てられた家。
子どもの頃はここは、
向かい側の陽当たりの良い畑でした。
ホウレンソウや馬鈴薯、人参などが植えられていました。
私の5,6歳の頃の思い出です。
その後、お茶が植えられて、茶摘みをした思い出があります。

お墓参りに止めた愛車。
私の兄の代で越中(富山県)砺波地方から移住して5代目となります。砺波では、代々八田藤四郎という家だそうです。江戸時代から明治に移行する頃に一時大田原市の琵琶池に住みその後今の地、稲沢(膳棚)に移ってきました。琵琶池や福原の江川から湯津上に続く地域は同じくと富山県からの人々が住みついていたと言います。富山県人は敬虔な浄土真宗(一向宗)の信者で県民性というのか、事業欲がありいろいろな事業を行って開明的な人々だと言います。私の曽祖父、音松の兄弟は皆他の地区に婿に入り、発明特許を取得し事業家だったと聞きます。兄弟だった平沢の鶴野氏は、同じく開明的な人だったようです。私の曾祖母や祖母は同じく佐久山の出身で浄土真宗の信者です。朝晩、折あれば仏壇に向かっていました。私も子どもの頃は、彼岸やお盆の時に仏壇の掃除は毎度のことでした。晴れた日に縁側に並べて灰汁を使い仏器を奇麗に磨いていました。朝のお仏器でのご飯のお供えや線香をあげるのが子どもの頃の私の日課でした。ルーツという言葉があります。祖父母の背中を見て育ち、私のルーツは、越中(富山県)にあります。私に流れている血は紛れもない越中富山人の血だと感じます。

木村会長の話から、かつてこの土地の家が萱葺屋根だった頃は、会津地方から、萱葺の職人たちが、農閑期に出稼ぎに来たという。私の住む稲沢部落には茅野という入会地があり、多くの人達が参加して、屋根の葺き替えを交代で「結い」で行っていました。その後、多くの家が萱屋根からトタン葺きや瓦に代わり共有地は必要なくなりました。そして、不動産として都会の何方かに売られました。私の子どもの頃に幾度か屋根の葺き替えを見ていました。57坪の農家です。縁側があり土間の台所と囲炉裏があり、広間と座敷、納戸と4畳の間がありました。仏壇は、座敷に造られて浄土真宗の豪華なものでした。数日間掛けて村中の人々が来られて作業をしていました。村の誰か知る人が指図していました。それまでには準備として萱や藁、葦を集めて、束ねて一か所に積んでいました。

木村会長は、私の伝統工芸品と民芸品、伝統食品の通販で160もの工房があることから、それらの工房の歴史と那須地方との関りとを調べられては如何かといいます。ひとつのテーマとなることが考えられます。郷土史と伝統工芸の歴史です。私の新しい視点になりそうです。

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