2021年1月17日日曜日

東山道伊王野「義経街道」から.Vol001

 私は、昭和25年那須町稲沢の生まれです。嘗て幾度かの町村合併がありましたが、那須地区(那須湯本と黒田原)、芦野地区、伊王野地区の3地区に分かれていました。私は、稲沢(伊王野地区)でしたので、帰属意識としては伊王野地区になります。

私の小学校の頃の伊王野(街)は、呉服店がいくつかと肉屋も2軒、クリーニング店、書店、酒屋も数軒、床屋美容室も数軒、金物屋、スーパーマーケット、味噌醤油店、饅頭屋、駄菓子屋、魚屋も2軒、豆腐屋と大きな製材工場も3軒もあり、そして、有楽施設の映画館劇場がありました。その劇場では、有名な歌手や講談師が来たり、映画も良く上映されていました。聞くところでは、春日八郎や村田英雄が来たと聞きます。母の実家が伊王野地区の上郷坂本にありましたので、母の里帰りや夏休みに付いて行き映画を見るのが楽しみで、チャンバラ映画を何度も見ました。映画館の升席でマッチ箱のような平たい箱に入ったアイスクリームが、15円で売られていて、それも楽しみでした。中学校の時には、授業で何かドキュメンタリーの映像と有名な映画を見た記憶があります。24の瞳だったような、野菊の墓だったような。当時の伊王野村はどれ位の住人だったのでしょうか。調べると私の生まれた1950年6,740人とあります。夏や秋には体育大会があり、稲沢、沼野井、伊王野、蓑沢・・・・等の地区に分かれて、部落総出で賑やかでした。盆踊りやお祭りも賑やかでした。その内に高校、大学と進み時折訪れる伊王野の町は、徐々に勢いを無くして、嘗ての商店も賑やかさが無くなりました。そして、今尋ねる伊王野は、道の駅東山道伊王野が賑やかですが、他には、私のご紹介する那須味噌の須藤商店さんぐらいです。本当に見事にシャッター通りに成り果てました。皆、商店を廃業し、サラリーマンの生活になったのでしょう。

手仕事専科の工房

那須の弁慶米  http://tesigotosenka.com/benkeimai.html 

稲の沢みどり米 http://tesigotosenka.com/midorimai.html

那須味噌(須藤商店) http://tesigotosenka.com/nasumiso.html

東山道(伊王野)は、義経街道とも言われます。東山道の繁栄と義経伝説古代から中世にかけて都と奥州の文化交流の幹となった旧東山道。義経街道ともいわれるこの道は、源義経が治承4年(1180年)兄頼朝の平家追討の挙兵に呼応して、奥州平泉を後に一路鎌倉へ向かった道である。この地には義経伝説をうらづける数多くのものが残されている。


東山道(とうさんどう)は、五畿七道の一つ。 本州内陸部を近江国から陸奥国に貫く行政区分、および同所を通る古代から中世にかけての幹線道路を指します。大宝元(701)年に大宝律令(たいほうりつりょう)が制定されると、都と地方を緊密にむすぶ「官道(かんどう)」が整備されました。東山道(とうさんどう)は7つあった官道のうちのひとつで、現在の滋賀県から岐阜・長野・群馬・栃木の各県を通り抜け、宮城県の多賀城からは岩手と秋田両県の二手に分かれた、当時の日本で最も長い道でした。官道には原則として、30里(約16キロメートル)ごとに「駅家(うまや)」と呼ばれる施設が造られました。栃木県内には、7つの駅家があったとされています。近年の発掘調査や研究成果などから、少しずつ東山道の姿がわかるようになりました。当時の東山道は、中央集権的支配を確立するために整備され、軍事目的あるいは経済基盤の確保に大きな役割を果たしました。さらに東山道を経由して、都からの文化や大陸からの技術ももたらされました。この駅家(うまや)について調べましたが、現在の地の何方になるのかの資料は見つけられませんでした。上の地図の古くからの●記の部落には、それがあったのかも知れません。

追分の明神(おいわけのみょうじん)
延暦10(791)年、坂上田村麻呂が征夷の途上で勧請(かんじょう)したと伝えられる。東山道沿いにあり、下野国と陸奥国(むつのくに)の国境(くにざかい)を挟んで護る峠の神様が祀られている。


那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)
文武4(700)年頃、那須直韋提(なすのあたいいで)の業績をたたえ、跡継ぎの意斯麻呂(おしまろ)らにより建立した日本三古碑のひとつ。長らく草むらの中に埋もれていたが、延宝4(1676)年に旅の僧円順と庄屋大金重貞によって発見された。天和3(1683)年には、重貞が記した『那須記』を領地であるこの地を訪れていた水戸藩主徳川光圀に献上し、世に知られるきっかけとなった。現在、笠石神社の御神体として祀られている。
那須神社本殿・桜門
4世紀末頃の創建とも、征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇(おうじんてんのう)を祀って八幡宮にしたとも伝えられている。源義家や那須与一もここで武運を祈念し、江戸時代の俳人・松尾芭蕉も参拝したという。那須氏や大関氏の氏神であり、現在の本殿は寛永18(1641)年に、楼門は寛永19(1642)年に大関氏によって再建された。

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