幾度か中尊寺は、訪ねているのですが、毛越寺は、訪ねたことはありませんでした。今回世界遺産の認定から、ちょうど南部の手仕事専科の取材もあって、訪ねることが出来ました。大きな境内とその跡が幾カ所もあって、壮大な寺院建造物であったことが分かります。奥州藤原家4代の菩提寺でもあり、その後も頼朝や伊達家の庇護のもとにあったとききますが、度重なる災渦(戦火と野火等)によって、焼失したままとききます。もし、復旧の予定があるのなら、ぜひ往年の姿を見せて欲しいと思いました.
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大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し嘉祥寺(かしょうじ)と名付けました。これは毛越寺の開山にまつわる話です。
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【白鹿伝説】
寺伝によると嘉祥3年(850)慈覚大師(じかくだいし)が東北巡遊の折、この地にさしかかると一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。
ふと足元を見ると地面に白鹿の毛が点々と落ちているので、大師は不思議に思いその毛を辿ってゆくと、前方に白鹿がうずくまっていました。大師が近づくと白鹿の姿は霧のなかへ消え、やがてどこからともなく一人の白髪の老人が現れ、「この地は霊地であるから堂宇を建立するなら仏法が広まるであろう」と告げました。大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し嘉祥寺(かしょうじ)と名付けました。これは毛越寺の開山にまつわる話です。
【毛越寺縁起】
毛越寺はモウツウジと読みます。通常、越という字をツウとは読みませんが、越は慣用音でオツと読みます。
従ってモウオツジがモウツジになり、更にモウツウジに変化したものです。
毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。
平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。
【発掘調査】
毛越寺境内は昭和29年から5ヶ年間にわたって全面的に発掘され、その規模などほぼ全容があきらかにされました。その調査結果は、吾妻鏡などの古記録とも合致するものでした。伽藍復原図は、この発掘調査の資料をもとに画かれたものです。
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