2011年1月8日土曜日

尾島利雄先生/講演原稿から      series②

 今、手元には、一冊のアルバムがあり、その表紙の裏側に講演原稿の一部でしょうか尾島先生の文字で書かれています。それをご紹介したいと思います。

 『母と私と民俗学』
 名もなく貧しく美しく生きた坂東太郎坂東おトラばあさんが何に喜び何に泣き、何に生きがいを求めたかを調べる民俗学、即ち庶民の生活文化誌の研究に足を踏み入れたのは、私が18才の時であった。当時、民俗学は地方では、一番の仲間ともいえる歴史研究家や郷土史家からも「愚民のタワゴトを聞いて歴史などとは笑止千万と笑われていたころで、これにとりくむ若者は栃木県のではほとんど見当たらなかったものである。

 このようにして私の民俗学の第一歩は、古老をたずねての聞き書きにはじまる。それができなければ一人前の民俗学者への道は歩めない。だから年寄りのところに行くことになんの抵抗感も持たない若者でなければならなかった。
 若い私が弁当腰に古老をたずねて、その昔の生活誌をたずねまわる姿は、まわりの人々には、奇異に感じられたものであろう。「金にもならないのにつまらんことを。」「年寄りのくりごとを聞いて喜んでいる尾島のセガレは、すこし頭がおかしいのではなかろうか。」とかげ口をたたかれたものである。

 私の社会への第一歩は小学校の教師であった。教師になっても土曜の午后と日曜日はテクテク民俗探訪(一般庶民のその昔の民俗探訪であった)であった。
 私の教師としての将来を心配する人々から「そんなことばかりしていると、教頭にも校長にもなれねえぞ」と耳にタコができるくらいいわれた。そんな中にあって、ともすれば挫折しようとする私をささえてくれたのが、オフクロであった。「他人様は何といおうとも自分できめた道は最後までやれ利雄、金玉あんだんべ。」と励ましてくれた母。この言葉を心の支えとして三十年近い民俗研究生活を続けてきたのである。
 今にして思えば、私の人生の教師はオフクロであった。
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講演の「母と私と民俗学」(左側㌻)

下野手仕事会の宴会にて、尾島先生
左から萩原幹雄さん、大畑英雄会長(中央)、渡辺操氏(右)

下野手仕事会の記念研修
尾島先生(中央)、小川政次会長(右前)
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