2020年11月20日金曜日

「君が代を歌わない」、「国旗掲揚を行わない不思議」

 時折に「国旗掲揚」されないことをfacebookに投稿していました。記紀に始まる日本の歴史を振り返り、「国旗・日の丸の旗」の歴史や読み人知らずの「君が代」の歴史を知ります。「君が代」は10世紀に編纂された勅撰和歌集『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として、世界で最も古い国歌と言われます。それ程に歴史のある国歌と国旗ですがが、何故かオリンピックの表彰台で栄えある選手の歌声を聞くことはありません。おなじく旗日と言われる国旗掲揚の日が年間16日あるのですが、その日に国旗掲揚する家庭を見ることは一度もありませんでした。私にしても国旗掲揚の日の丸の旗と国旗竿を準備したのは、一昨年です。それ以前には数年前にある町内の家で一軒だけ見ることがありましたが、広島県御出身の方で、大きな会社の役員を務めた居られた方です。その方がお歳を召されたからか最近その家に掲揚を見ることは無くなりました。

下野・会津・津軽の歴史街道として、ブログを書いています。手仕事専科の工房の歴史を尋ねると古くは600年代の朝鮮からの帰化人にまで遡る手仕事も、また、正倉院の建物や宝物にまで遡るものとなりました。当然、手仕事が一朝一夕に生まれた訳ではなく、背景にはそれがうまれて来た脈々と流れる歴史を見ることが出来ます。私には悲しいことがあります。その手仕事の歴史を知るうちに日本の記紀に始まり記された歴史が世界でも類稀な歴史であることを知ったからです。それが、その歴史に記される素晴らしい国歌、国旗が、日本民族の末裔である我々の時代に”疎んじられている”姿を見るからです。なぜに現状のような姿になってしまったのでしょうか。

私は昭和25年の生まれです。物心つく小学生の頃は旗日には、適当な長さの真竹に国旗と国旗金玉を載せて、縁側の柱に括り付けて掲揚していました。勿論、小学校や全ての役所でもです。中学、高校でも近現代史は、3学年の後期の授業となり、殆ど第二次世界大戦のことを詳しく学ぶ機会はなかったように思います。漠然と第二次世界大戦は日本の軍部が独走して始めた戦争で、ドイツ、イタリア、日本がファシズムによる悪の国家で民主主義の米英仏等が正義の戦いをしたと理解していたように思います。2発の原爆も東京大空襲や東京裁判も正義だったと。日本を戦争に導いた人達が、正義のアメリカ、西洋諸国によって裁かれたのだと。周囲にはどこにもそれに異を唱える人達も教育者も見ることはなく、アメリカは、素晴らしい個人の自由と権利をまもる民主主義の国家だと思い疑うことはありませんでした。大学に進んでも全共闘の学生たちの活動にも耳を貸さずにいました。なぜ、彼等が共産主義国家の主義主張に共感するかが分かりませんでした。

それからは、政治や教育、歴史には我関せずでサラリーマン生活を過ごしてきました。私の性格が由来したのかと思います。上席に従順な生き方となる公務員と教職員にはならないと決めていたからです。30年のサラリーマン人生を終え、その後に自由な伝統工芸品、伝統食品の通信販売である「手仕事専科」を立ち上げました。還暦の時です。そして今、古稀を迎える年代になり、中国や韓国の日本を非難する「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」の声を聴き、サラリーマン時代に不思議に思っていたことがありました。私たち日本人は、そのような酷いことをして来たのだろうかということです。日本軍の規律は厳しかったと聞いていました。そのようなことから、靖国参拝を唱える人達の声を聴き、それらの史実を学ぶ機会が増えてきました。渡部昇一氏は多くの著書で近現代史を書いていますが、彼が主張する史実は、真実に近い常識的なものと受け止めています。彼は元々は英文学者です。歴史家から見ると彼の史実に異を唱えることもあるかも知れませんが、主流に置いては間違いではないだろうと思います。彼等の唱える史実は、正しい理解だろうと思います。世界が如何に自国の利益の為に動いているかが分かります。そこには正義の一欠けらもありません。その史実からは、英米仏の西洋諸国、共産主義国家ソヴィエトや中国が、悪の権化であるかが見えてきます。それにただ一国の日本国だけが対峙したことが分かります。その素晴らしい意気地を持つ日本国の私達の先人が、何故にこれほどの賤し目を受けなければならないのか、それが私の憤りです。未来の人達の為に戦い死んでいった彼等の守ろうとした末裔の私達が、先人に感謝し敬わず弔うこともしないなどとはあり得ないことです。

アメリカのなした洗脳です。詳しくは別の項で触れますが、自分たちのした劣悪非道なことを隠蔽し日本を悪の権化として日本人に刷り込みました。かつての日本の正しい歴史の記録を焚書として葬り去りました。その嘘と捏造の歴史をひろげたのは、戦前からの社会主義者達「敗戦利得者」であり、同時に公職追放で黙してきた人々や自民党政治です。彼等は、アメリカの都合の良いことに与し、日本人の誇りや歴史、国益に反することを是としています。明治を作った人々には無い精神です。彼等は、如何に白人列強諸国から日本国を衛かを思い政治にかかわった人々です。「報国の士」です。

「憂国」の言葉があります。古稀を迎える齢となり、今更ながら、正しい史実を知らない人達や子ども達に広く知らしめ日本人としての誇りと夢を持つ子供たちを育てたいと思います。

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2020年10月26日月曜日

「種を蒔かなければ」-那須文化研究会Vol003

 ネクストリーダーという啓蒙のブログがあります。株式会社ダイレクト出版社の販促のものですが、「種を蒔かなければ、欲しいものは手に入らない。」というタイトルで書かれていました。

私は栃木県那須郡那須町大字稲沢の生まれ育ちです。田圃2丁歩、畑も8反歩と山林は10丁歩を超えて持つ、旧伊王野村では米100俵を供出できる有数の農家でした。私の生まれた昭和25年頃には、曾祖母キンと祖父母兼次郎、ヨシがおり、両親と子供6人、叔父叔母合せて13人の大家族でした。盆暮の親戚の者が帰省すると20人を超える宴となりました。キンの夫の音松は54歳で急逝していますが、琵琶池の田口の出で、兄弟は近在のそれなりの家に婿に入りました。音松はじめ皆優秀な人物だったようです。嫁ぎ先の地域でも一目置かれる人物として名を馳せたと聞きます。氏家に婿入りした方は、実業家で籾殻の選別機で特許を持っていました。同じく、大田原市の平沢に婿入りした方も優秀で地域で代々一目置かれる開明的な農家になっています。我が家の音松も新参者でしたが、この稲沢部落では一目置かれていたようです。ある時我が家で音松の法要が営まれその折に琵琶池の田口出の者達が7,8人で来られましたが、驚きました。皆揃って私の叔父叔母や大叔父の子ども達にそっくりな顔立ちなのです。宴席に並ぶ叔父叔母は「あれまあっ!」と顔を見合わせていました。血は争えないものですね。叔父叔母の従妹や再従兄弟姉妹にあたります。私のご先祖は、越中富山の砺波地方から琵琶池を経て、明治の初めにこの稲沢の膳棚の地に入植しました。父の代で4代目と言います。砺波地方のお寺に家系図があり、父はそのルーツを尋ね、その家が代々八田藤四郎を名乗り、半農半士の足軽だったと調べてきました。この膳棚の地は谷地ッ田という湿地で両郷の浄土真宗のお寺の地所だったと聞きますが、山林の一部は越堀の藤田郵便局長の土地だったようです。長年小作をしていましたが、こつこつと貯めて祖父母の兼次郎、ヨシの代に完済し、現在の土地を持つ有数の農家になりました。那須文化研究会の木村会長の話すには、富山県人たちは、湿地を好んで入植したようだといいます。お米が美味しいのが湿地です。琵琶池や江川沿いの村々も湿地になります。この膳棚の地も紛れもない湿地でした。旧奥州街道近くになる古くから住む稲沢の人々は、高地(台)に住み着き物事の変革は気性的に苦手だったといいます。それに引き換え、富山県人たちは、開明的で起業家だったともいいます。越中富山の人達は敬虔な浄土真宗(一向宗)の門戸です。私の性格からその血が流れているのを感じます。

農家に生まれ子どもの頃から、父や母、祖父母の仕事を見て育ちました。茅葺屋根の背後に山を背負い、孟宗竹や真竹を風除けに植えて、小さな沢が山裾の端を流れており、そこから水を庭の浮島のある池に引き、一寸した和風庭園ですが、いつも冷たい水が「筧(竹の筒)」から、池の受け桶に豊富に流れ落ちていました。我が家に来る人々はその水を手酌で汲みその冷たさと美味しさに声を上げていました。夏には、西瓜やトマトが冷やされていました。私たち子どもは一年を通して毎朝その水で顔を洗っていました。流れる水を手に受けて顔を洗う、シャキッとする瞬間です。竹藪からは、旬には筍が取れて、その美味しさは有名でした。土地が肥えていたのでしょう。背後の山と南を向いた窪地のせいで暴風雨でも災害に会うことはありませんでした。この暮らしの生活方法は、富山人の長い入植からの智恵だと思います。この優れた地のことは越中富山の薬売りの情報からだと思います。彼等は全国に情報網を持っていたようです。私が記憶に残るのは、私は次男坊で母が22歳の時の子ですから、私が5、6歳の頃に思い出す母は、20代後半の若い女性でした。あまり美人とは言えませんが、色白で小柄ながら豊満な女性で勉強も良く出来る賢い女性でした。母の兄になる二十何歳か年の離れた伯父の文右衛門には、随分と可愛がられたと聞きます。姿格好は、農家の嫁でしたから絣や縞の着物を纏いモンペに手拭いを姉さん被りにしていました。私や長女娘や孫が色白なのは母似だからです。いつも何かの農作業をしていましたので、白い顔や胸を火照らせて、手拭いで汗を拭っていました。父と母の二人で朝早くに草刈りに出かけ、春先には馬を使い水田の荒くれ掻きや田植えの準備をしていました。田植えは、村内の人達が結で来られ、隣部落から多くの人達が手伝い人夫で来られていました。農繁期には、昼時や囲炉裏と土間がそんな女衆と男衆でいっぱいになりました。早苗饗の最後には、宴会となりました。興に乗り祖父兼次郎が詩吟を詠じて踊っていたのを思い出します。曾祖母のキンや祖母ヨシの着物は色味こそ年齢に応じて地味でしたが、同じく着物とモンペの格好でした。これが農家の標準着です。二人とも琵琶池と隣部落藤沢の高橋の家の出です。同じく越中富山からの人々だと聞きます。二人ともそろって働き者で、80歳を過ぎても朝早く4時頃から畑に草取りで出かけていました。蚋(ブヨ)に喰われない時間帯だからです。それでも顔中を喰われて瞼も赤く腫れて目が見えない程になっていました。私達は6人兄弟として育ちましたが、兄、私の後には妹が3人と弟がひとり生まれ育ちました。実際は、3男の弟の後に4男の子が宿りましたが、水子になりました。当時であっても6人の子どもは多過ぎたのでしょう。私達はそのことを知りませんでしたが、ある時母が水子供養をしているのを見て知りました。そして、その後に最後の女の子が宿り、泣いて母が父に産むことを迫ったと聞きました。その子は、もうじき60歳近くになりますが、性格や顔立ちは叔父叔母に似て、綺麗な賢い女性になりました。

那須町大字稲沢小字膳棚の
水田風景です。この右の杉林の窪地に
お墓があります。
現在は、4軒の家の共同墓地です。
祖父兼次郎の好きな葱味噌です。
葱の美味しい時期に作りました。
懐かしい味ですが、娘が好んで
食べてくれます。

ブログのテーマ「種を蒔かなければ、欲しいものは手に入らない。」は、人生を生きる上で鍵となります。農家育ちの私には、「種を蒔く」は、「目的」に向かい行動を起こすことを意味します。「収穫」は「目的」です。

私達は、あまりに受動的な生き方をしています。種を蒔かずに収穫だけを望む生き方です。TVのスイッチを入れると次から次に偏向(遮光)されたニュースが流れ、国民を扇動する政治ショーが映ります。そして、タレントといわれる著名人が意見を述べています。その問題には関係のない専門外の人々の意見です。私は首を傾げざるを得ません。番組制作の担当者の筋書きに載ってです。すべてがバラエティ化した番組です。数パーセント支持率の野党が、立憲民主党や共産党が、与党を非難しています。そして、メディアが挙ってさも正論であるかのように取り上げて放映しています。ニュースは全てがメディアの意のままに切接ぎして作ります。さも真実のように事実を反対にすることまでも印象付けて行います。現代日本のメディアは、何食わぬ顔をして恐ろしい人々です。かつてTVが普及した際に「一億総白痴化」が言われたことを思い出します。国家の政策は、私達の思いとは異なり空滑りする方向に向かいます。コロナ禍の10万円一律配布など愚の骨頂です。野党やメディアは、政治スキームのことなる国々の一部を取り上げて、政権を攻撃します。年金生活者や公務員などの人々は、何ら影響を受けていません。そのような金は不要です。世相に沿わなければ、政権維持が危ういからです。しかし、国民はそれほどに馬鹿じゃありません。その証拠に何でも反対の野党の支持率をご覧ください。SNSやメディアで取り上げられて、扇動の道具とされていますが、それは、真実とは程遠いものです。日本社会は高度に統合された社会です。問題解決に黒い糸を一本引き抜こうと思っても多くの糸が絡み合い解れることはありません。全てが絡み合っているこの社会は、何を鍵にして解すことが出来るのでしょうか。私には分かりません。

しかし、「鍵」は、時間です。育成する「時間」が「鍵」となります。解けなかった柵の絡む糸が、面白いように解れてくると思います。つまり、「種を蒔くこと」が「鍵」になるように思います。この世の中を未来の社会を「幸せな社会にする目的」として「種を蒔きたい」と思います。生きている今、種を蒔かなければと思います。那須文化研究会では、史実から真実を読み解き未来に繋ぐとしています。私は、未来の為に今、子ども達に伝えたいと思います。「日本の真実の史実」を。「欧米によって捏造され目に触れて来なかった日本の誇り高い真実の歴史」を。

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2020年10月23日金曜日

ルーツ-那須文化研究会.Vol002

昨日は、那須文化研究会の木村康夫会長を大田原市教育委員会事務局に尋ねました。というのは、那須塩原市の生涯学習課に歴史研究会のサークルを尋ねた処、御紹介頂いたからです。

冒頭は、名刺交換からでした。私は、手仕事専科のwebsiteを運営しており、那須ビューホテル時代に尾島利男先生の薫陶を受け、下野地方の伝統工芸や民俗芸能に触れたことからだと。木村会長は、教諭を長年なされており、国語担当だったと言います。大田原高校卒の1学年後輩になり、私の知っている1学年上級の稲沢道夫氏や同級生だった鈴木勝男氏と那須高校教諭時代に同僚として感化を受けたと言います。彼らを知る私には、優秀だった彼等ならではと想像できます。

家から眺める水田風景
右の杉林は、茅野に植えられたものです。

八重さんちという場所に建てられた家。
子どもの頃はここは、
向かい側の陽当たりの良い畑でした。
ホウレンソウや馬鈴薯、人参などが植えられていました。
私の5,6歳の頃の思い出です。
その後、お茶が植えられて、茶摘みをした思い出があります。

お墓参りに止めた愛車。
私の兄の代で越中(富山県)砺波地方から移住して5代目となります。砺波では、代々八田藤四郎という家だそうです。江戸時代から明治に移行する頃に一時大田原市の琵琶池に住みその後今の地、稲沢(膳棚)に移ってきました。琵琶池や福原の江川から湯津上に続く地域は同じくと富山県からの人々が住みついていたと言います。富山県人は敬虔な浄土真宗(一向宗)の信者で県民性というのか、事業欲がありいろいろな事業を行って開明的な人々だと言います。私の曽祖父、音松の兄弟は皆他の地区に婿に入り、発明特許を取得し事業家だったと聞きます。兄弟だった平沢の鶴野氏は、同じく開明的な人だったようです。私の曾祖母や祖母は同じく佐久山の出身で浄土真宗の信者です。朝晩、折あれば仏壇に向かっていました。私も子どもの頃は、彼岸やお盆の時に仏壇の掃除は毎度のことでした。晴れた日に縁側に並べて灰汁を使い仏器を奇麗に磨いていました。朝のお仏器でのご飯のお供えや線香をあげるのが子どもの頃の私の日課でした。ルーツという言葉があります。祖父母の背中を見て育ち、私のルーツは、越中(富山県)にあります。私に流れている血は紛れもない越中富山人の血だと感じます。

木村会長の話から、かつてこの土地の家が萱葺屋根だった頃は、会津地方から、萱葺の職人たちが、農閑期に出稼ぎに来たという。私の住む稲沢部落には茅野という入会地があり、多くの人達が参加して、屋根の葺き替えを交代で「結い」で行っていました。その後、多くの家が萱屋根からトタン葺きや瓦に代わり共有地は必要なくなりました。そして、不動産として都会の何方かに売られました。私の子どもの頃に幾度か屋根の葺き替えを見ていました。57坪の農家です。縁側があり土間の台所と囲炉裏があり、広間と座敷、納戸と4畳の間がありました。仏壇は、座敷に造られて浄土真宗の豪華なものでした。数日間掛けて村中の人々が来られて作業をしていました。村の誰か知る人が指図していました。それまでには準備として萱や藁、葦を集めて、束ねて一か所に積んでいました。

木村会長は、私の伝統工芸品と民芸品、伝統食品の通販で160もの工房があることから、それらの工房の歴史と那須地方との関りとを調べられては如何かといいます。ひとつのテーマとなることが考えられます。郷土史と伝統工芸の歴史です。私の新しい視点になりそうです。

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2020年10月22日木曜日

那須文化研究会のこと。Vol001

 今日は、那須文化研究会の木村康夫会長を大田原市教育委員会事務局に尋ねました。というのは、那須塩原市の生涯学習課に歴史研究会のサークルを尋ねた処、御紹介頂いたからです。


手仕事専科のコンセプトは、「和美との生活」です。伝統的産業「手仕事」を守り、人間らしい生活に復帰することを目的に『”和美(わび)”との生活』を提案しております。和=日本の伝統的な製品と生き方である”和”、美=古の生活の中で育まれてきた美術工芸品と生き方の知恵としての”美”を生活の中に活用することを提唱しています。この考え方が、私のスタートでしたが、最近になり日本の国史や近現代史を学ぶにつれ、その考え方が大きく変わりました。伝統工芸の歴史や伝統工芸品の美しさ、結い等の社会生活の価値観に焦点を当てようと考えていたのですが、それだけでは、成り立たないことを知ったからです。「木を見て森を見ず。」でした。今、森が焼かれようとしている時に樹木のみを見て森の外の世界を知らない愚かさに気付いたからです。

世界の歴史を見ると白人社会の植民地支配と帝国主義による余りに残虐な侵略と圧政があります。絶対王政時代では、弱肉強食です。強い者が正義です。そして、近代に入り世界の金融資本による世界の経済制覇に繋がっています。それの影響下にある白人国家が、第一次世界大戦、第二次世界大戦を齎しています。彼らは、プロパガンダにより「自分たちの大義名分」により世相を作りました。金融資本は、グローバリズムを是としています。彼らの活動にとって国家は妨げであり必要ではありません。しかし、西欧社会そして、全世界を牛耳る彼らは、グローバリズム、改革、競争は安価なものを消費者に届けるとして、正義としています。アメリカの民主党や西欧社会のリベラルな政党、そして、金融資本の覇権のもとにある銀行等です。

日本は、アメリカの6年半も掛けた占領統治でなされた東京裁判史観やWGIPで、自虐史観で一杯にされたのです。そして、それに組したのは、吉田茂に始まる自民党です。社会党や共産党は、更に敗戦利得者として、アメリカの占領統治に従い、戦後の教育界にそのままの観念を継続しました。従来の価値観を持つ人々は、公職追放で姿を消しました。その結果が、国に民族に誇りを持たない現在の日本があるのです。私は、近現代史を知ることにより、旗日には国旗掲揚を行っています。年間を通して、16日の旗日があります。その日に外出をしますが、国旗掲揚の家は、皆無です。皇紀2,600年の歴史を持つ国家が、自分たちの国家、民族に誇りを持たないのです。日本人は、どうしたのでしょうか。これは、羊然として生きて来た教育界の責任だと思います。

小泉純一郎氏は、アメリカのグローバリズムの干渉に従い、数々の改革を行いました。最たるものは郵政改革です。その結果がどうなったでしょうか。今は専従社員が減少しフリーターや自由契約の人々が、巷に溢れています。アルバイトの生活で所帯を持ち子どもを育てられるでしょうか。人口減少は、日本の政策が根っこから誤っているのです。食料自給率が、悪化の一途をたどってもパン食や乳製品等食を辞めません。世界は、江戸時代から続く日本食を健康に一番の食としています。なぜ、従来のその食生活を捨てて、アメリカに追随するのでしょうか。国史を知らない人々により、政治経済が動いているからです。

私の主張「和美との生活」は、これを見過ごすことは出来ません。足元の文化に焦点を合わせることに、更に「世界の動き」を「俯瞰する。」ことです。江戸時代には、陽明学や朱子学が起こりました。学問を行動に移すことです。今日の木村康夫会長から、「那須文化研究会」のコンセプトは、「那須地域における自然・歴史・民俗の調査研究。」「史実から学び、それを未来に繋ぐこと。」と話していました。私の「なぜ、誇りを失ったのか?」の思いに対して危惧を抱いているのを感じました。その意味では、私とのスタンスが異なるのかと思います。私の提唱する「和美との生活」は、歴史の史実をもとに「力が正義」の世界の論理を子ども達や現代世代の人々に伝えることだと認識しています。

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2018年3月10日土曜日

いのち(生命)の誕生!

手仕事専科のwebciteをスタートして、8年が過ぎようとしています。
この間、沢山の方々のお世話になりました。
思いが余って、行き過ぎてしまい、随分とご迷惑をお掛けしたようにも思います。
未熟者の自分に呆れることなくご協力くださったお客様や工房の方々、そしてスタッフの者には、感謝の気持ちで一杯です。
 
今回は、テーマの趣が異なります。
一番近いジャンルが、歴史街道でした。
最近、私夫婦に初孫が、生まれました。
娘は、結婚が遅く、また、子どもにもすぐには恵まれませんでしたので、孫を腕に抱くことは、諦めていましたが、吉報です。
娘の誕生日と同じ日に男子誕生です。
妊娠を告げられ、臨月になり、高齢出産でしたので、無事に生まれるか随分と心配もしました。
そして、病院に連れて行き、その日の夕方に産まれました。
母子ともに健康であることだけを願って。
無事に生まれ安堵しました。

私の手仕事専科では、和美との生活を提唱しています。
その活動とともにどうしても避けては通れないことがあります。
「日本人としての誇」です。
戦後72年をすぎ、第二次世界大戦のことを日本人は、避けて生きてきました。
世界の歴史をみたときに光と闇とをはっきりと見ることが出来ます。
今回、一つの命を授かり、命の大きさを感じました。
広島、長崎の原爆投下と東京大空襲では、兵隊ではない女子供や老人達が一瞬にして命を奪われました。
第二次世界大戦では、360万人もの日本人が亡くなりました。
愚かな悲しい軌跡です。
そして、その歴史の所以は、日本の明治以降の近代化の歴史です。
「ひと一人の命を奪うのは、殺人だが、戦争の何十万という殺戮は、犯罪ではない。」といいます。
私達に子どもができ、愛すべき孫が生まれ、ひと一人の命の大切さを再度思い出しました。
ホロコーストは、非難されるべきですが、今のユダヤ人国家・イスラエルは、おなじことをしています。
パレスチナに対するこのユダヤ国家の犯罪は、許されるべきではありません。
どうように日本の大戦前後に光を当て、「日本人の誇」を守りたいと思います。

世界史には、正義はありません。
力の強いものが正義です。
私は、正義以前に「人として守るべきものとは、何か。」を問いたいと思います。

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2018年3月6日火曜日

坂下初市-奇祭大俵引き

先日、奥会津の間方地区の菅家藤一(工房間方の代表者)さんを訪ねる時に坂下町で大きな俵が祀られているのを見かけました。
神社のお祭りがあるのだろうと思い調べましたら、「大俵引き」の祭りがあることが分かりました。
最後にご説明をします。
手仕事専科 http://tesigotosenka.com
工房間方   http://tesigotosenka.com/kobomakata.html
会津坂下町の街道沿いに
鎮座している大俵です。
長さ4m、高さ2.5m、重さ5t
上町(東方)が勝つとその年のコメの値段が
あがり、下町(西方)が勝つと豊作になると
言われています。
どちらが勝っても良いようです。
289号線沿いの神社
間方地区にある祠です。
雪に埋もれていました。

[風習]や[伝承]いう言葉がありますが、民俗学では、格好のテーマです。
私の恩師である尾島利雄先生は、民俗学の大家です。
(尾島先生は、私の青森や福島の赴任地にいく度も訪ねてこられ、手仕事専科の立ち上げの際には、御夫妻でとても喜んでくれました。)
伝統工芸や民俗学には付き物の神楽踊り、太鼓や三番叟などの地域に伝わるお祭りの保存・継承に務められていました。
天皇陛下のご行幸で、栃木県の伝統的手仕事のご進講には、必ず尾島先生が、当たりました。
私は、未熟者で、これらの事柄については、専門的な知識を持ちません。
しかし、尾島先生の「清く貧しく美しく生きた人々」という言葉に触れるたびに、当時の庶民の生きざまを感じていました。
神道は、日本の自然宗教的なものと思っていますが、地域に連綿と残る神社や祠を見るとその地域の人々の生き様や歴史を感じます。

戦後72年といいますが、今の日本を見ると豊かになったけれども、かつての日本人のもつ魂を感じられません。
かつての日本人の生き様は、歴史の中に見ることが出来ます。
豊かな四季の恵みから自然の美しさを愛で、詫び寂びの世界を観ています。島国であることから、素晴らしい海と山の幸の食文化を持ち、大陸に隣接することから、その文化を取り入れながら、島国の中で独自に醸成してきました。
江戸時代は、殺戮もなく世界に誇れる文化と治世だったといいます。
明治を迎え、帝国主義という世界と直面し、大きく生きざまを変えてきました。
列強の四海の中で、植民地にならずに戦ってきましたが、列強相手の第二次世界大戦で甚大な結果を蒙りました。
360万人もの国民が亡くなり、豊かな国土は、荒果て荒野に帰しました。
戦後の私たちは、その歴史を帰り見ないで生きてきました。
第二次世界大戦に至る歴史の本質を直視することなく耳を覆い欺瞞の上に為しえた経済発展に思えてなりません。
「360万人もの人々の死を無駄死ににしてはならない。」
直視することなしには、戦後は、終わらないと思います。

************************
坂下初市 奇祭 大俵引き
1月7日の柳津町七日堂裸参り、1月10日(毎年第二土曜)の会津美里町高田大俵引きと並んで「会津三大奇祭」に数えられる会津坂下町初市大俵引きは、毎年1月14日に行われています。

坂下(ばんげ)が越後街道の駅所として整備された寛永年間から400年続いている初市の日にあわせて大俵引きも行われてきました。
昔も今も米どころの坂下の農民が2組に分かれて米俵を引き合い、その年の米の価格を占ったのが始まりだそうです。
新編会津風土記にも、坂下の初市と俵引きについての記述があり、「その壮観これに過るものなし」と記されています。

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2017年9月2日土曜日

那須温泉神社(ゆぜんじんじゃ)の御神木

数日前に那須温泉神社に詣でました。
手仕事専科の打合せがありました。
那須温泉神社の縁起によりますと由緒ある神社になります。(※下段に記載)
那須温泉は、私が29歳から勤めた那須ビューホテルの地です。
小松屋石雲荘が、旧屋号ですが、時の風雲児ともいえる箭内原典が、一代にして起こした日本ビューホテルグループの旗艦ホテルです。
私たちは、日本ビューホテルのプライドを持って、ホテルマン時代を過ごしました。
当然ですが、那須温泉は、隅の隅まで知り尽くしていましたし、那須温泉神社とは、長い付き合いでした。
御婚礼の神前式の御婚礼は、神主の人見昇三さんにお世話になりました。
久々に神前にこうべを垂れてまいりましたが、鳥居や石塔や樹木を見ると時の立つのを感じます。
御神木のミズナラが、大きな樹膚を波うって聳えていました。
御神木は、樹齢推定800年になります。
人の命の儚さに私たちホテルマン(兵ども)の夢のあとと重なりました。
手仕事専科 http://tesigotosenka.com
御神木「生きる」
このミズナラは、悠久の時を経て、
直・樹勢 旺盛にして力強く
「生きる」と命名されております。
活力、蘇生力、生命力等のパワーが
授けられる巨木として崇められています。
和名 ミズナラ(ブナ科落葉樹)
樹齢 推定800年
樹高 18m  
胸高周囲 4m
那須温泉神社の大鳥居
大和 さざれ石
この石が、国歌のさざれ石です。

君が代は、千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで。
 
愛宕神社水
本堂への道から離れて、
愛宕神社の階段がありました。
こちらの林にもミズナラの大木がありました。
御神木のミズナラが、推定800年といいますが、
同じくらいの年数が見て取れます。
ガマズミの実が成っていました。
本殿です。
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●ご由緒について
上代より温泉名を冠せし神社は、延喜式神名帳(西暦900年代)に十社を数え、当温泉神社の霊験は国内に名高く,奈良朝時代の貴族の温泉浴のことは正倉院文書によりても明らかである。従って神位次第に高まり,貞観11年(869年)に従四位上を授けられた。後世那須余一(与一)宗隆西海に扇の的を射るに当たり,当温泉神社を祈願し名声を轟かして、那須郡の総領となるや領民こぞって温泉神社を勧請し奉り、貞享3年(1686)6月19日正一位に叙せられた。
現在那須郡内に約八十社の温泉神社を数うるのをみればいかにこの地方の信仰を集めていたかが推察される。
●那須与一について
那須余一(与一)は那須地方の豪族である那須太郎資隆の十一男として生れました。十一番、十あまり一で余一と命名されました。(後に与一に改名)
源義経の東国参陣の時これに従い、以後義経の騎下となって源平戦を戦いました。
有名な屋島の戦いで扇の的を射て名声を上げ20万石を頼朝公から賜わりました。
温泉神社と余一との深いつながりを表すものとして「平家物語」にはこのように記載されています。

『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え・・・』と、

凱旋の後その神恩の深いことを謝して、大社殿を寄進してその誠を表わしました。その他鏑矢、蟇目矢、征矢、桧扇を奉納しました。三番目の鳥居も余一が奉納したものです。
余一は不幸にして24歳の短命で世を去りましたが、那須氏は代々厚く温泉神社を崇敬して慶長年間に至りました。
●創建
第三十四代舒明天皇の御代、湯本より南方約八キロメートルの茗荷沢村の住人、狩ノ三郎行広は、小牛ほどの白鹿を追い求め矢傷を負わせてなおも追い続けて雪不尽山(那須岳)の麓、霧生谷(元湯付近)に至った。
濃霧に包まれ白鹿を見失い呆然として佇んでいるとき、岩上に白髪の老翁あらわれ、
「吾は温泉の神なり、汝の求める鹿はかの谷間の温泉に浴しておれり,その温泉は万病をなおして甚だ効あり。鹿の浴するも手負いを癒さんがためなり、汝よろしく之を聞きて万民の病苦を救うべし」
と言い終わりて消え去る。三郎白鹿を射止め、温泉を発見して神社を建立し歳時の祭礼怠りなく崇敬の誠をつくしたと言う。これが本神社の創建である。
●ご祭神について
御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
      少彦名命(すくなひこなのみこと)
       誉田別命(ほんだわけのみこと)    

 商売繁昌、家内安全、病気平癒、身体健全、縁結び 御利益があります。
また、那須与一も祈願したところから必勝祈願の御利益があります
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