2011年1月18日火曜日

尾島利雄先生/先生と私とのこと    series④

 昨日、「下野手仕事会」新年会のあとに、粟野町の野州麻紙工房を訪ねました。ギャラリー納屋は、月・火曜日が定休日なのですが、新年のご挨拶に伺いました。大森芳紀さんはご不在でしたが、淳子さんは手仕事の作業中で、いそがしい時間に訪問となってしましました。が、昨年来からのご注文を頂いていた「手毬ランプ」の制作の確認をさせていただきました。

 ちょうど、御父上の大森由久氏が、精麻作りを行っておりました。ご挨拶をして帰ろうとしましたら、引き留められて、お話となりました。ちょうど大凧用の麻糸・精麻240kgを近々納品するため、忙しい最中でした。

 今回、大森氏は、大麻商品を一般神社用につくられているお話をされていました。また、林博章著「倭国創生阿と阿波忌部」を紹介されて、日本の歴史が、大きく解明されるかもしれないと仰られていました。「手仕事専科」では、大麻と土偶の関係から、大麻商品を扱っていますが、大麻は、私を誘う道のように感じています。林先生の著書をお借りして参りました。次回には、大麻としてホームページ上にご紹介することになるでしょうか。

 今回の大森由久氏との出会いは、必然を感じました。大麻博物館高安淳一氏の大麻のお取引や私の関係する方々が、大森氏の共通の関係者でした。「下野・会津・津軽 手仕事専科」のご紹介から尾島利雄先生のお話になりました。ブログでご紹介をしていることをお話させていただきました。
 今回のことから、尾島先生との出会いと学びをブログの中で、簡単にご紹介したいと思いました。
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-経歴-
1980・04・07  日本ビューホテル那須事業所に入社
            接客課レストラン係へ配属
      12・01  売店及び営業企画係へ配属
            尾島先生との出会い
               正月の郷土芸能出演の打合せ
              下野手仕事展の開催
               *栃木県立郷土資料館へ尾島先生に伺う。
               *手仕事会の方々との出会い。
       ・    
       ・   (多くの手仕事企画、正月郷土芸能を毎年開催)
       ・
1994・04・01  星と森のロマントピアそうま赴任
               尾島先生・慰労で来場
               *大西氏とご一緒に来られる。
               (2回ほど来場)
2003・08・08頃 あぶくま洞にご家族で来られる。  
               ・栄夫人、娘さんご家族
2009・10・30頃 日本ビューホテル退社と「手仕事専科」設立の報告
2010.04.08  株式会社とぴい企画の設立
2010.04.20  「下野・会津・津軽 手仕事専科」のアップ
2010・11・30頃 尾島先生のブログ作成のために写真集をお借りする。
2011・01・17   現在に至る

学び
 尾島先生は、手仕事という一介の職人の方々を守り伝統技術の継承と後継者の育成を目ざして、当時の下野手仕事界の3巨匠ともいえる間々田ひもの渡辺浅市氏、武者絵の大畑力蔵氏、藍染の日下田博氏に声かけをされて、顧問として「下野手仕事会」を立ち上げられました。
 今年の下野手仕事会展が、第38回を迎えることからいえば、40年近い前になりますが、当時は、尾島先生は、38歳前後だったと思います。若い民俗学者の声掛けに賛同された3巨匠も立派ですが、尾島先生の情熱が、人を動かしたものと思います。
 
 初めて、下野手仕事を知ったのは、私が那須ビューホテルに入社した折でした。那須ビューホテルのロビーに「企画展」として、「下野の手仕事展」が設営されておりました。会場は、受け付けの担当者がついていました。出展作品は、当時は、60人を超える会員数でしたので、御神輿やら武者絵やら広いロビー一杯に展示されていました。当時は、和田鷹樹総支配人のときで、その後も和田支配人は、郡山ビューホテル浅草ビューホテルと歴任されて、隅田川の花火の際には、尾島先生を毎年浅草ビューホテルの花火の見える特別室へご招待されていました。
 
 また、私が尾島先生と初めて出会ったのは、前担当の池田義一マネージャーと一緒に県立郷土資料館とご自宅へご挨拶に伺った時でした。小柄な先生は、学者風の淡々としたお話をされる方でした。最初にご迷惑をかけたのは、手仕事展の作品集めに各手仕事師のご自宅を訪ねた際に時間が遅れてしまい、ご連絡ができずに遅れてしまった時でした。遅くまで私を待っていてくれたのですが、戻られてしまい、後日、静かにお叱りを頂戴しました。

 また、思い出深いのは、正月三ケ日に行う郷土芸能の発表でした。夏前の頃から、「新年の郷土芸能は、「OOのOO」に決めといたから、ここにいって打合せをするように」とお話をされ、殆どを決めていただいており、そのようにことが問題なく進みました。
 郷土芸能の参加者とホテル側の両方に細かな気遣いをされておられました。私自身、どちらかというと細かな方なので、問題もなくできましたが、やはり酸いも甘いも知る尾島先生のお陰だったと思い起こしています。郷土の伝統芸能保存会の方々や手仕事の方々は、独特な世界をもち、いやとなったら梃子でも動かない方々です。その方々に一言で進められる姿は、一途に信頼を得た並々ならぬ気づかいと配慮がないと出来ないことと思います。各地に継承される郷土芸能の県や国の認定や芸能出演など、尾島先生のご尽力がないと出来ないことでした。
 
 「民俗学の天皇」という言葉を大森由久氏から、伺いました。私自身、尾島先生に対してそのような印象は持っていないのですが、昭和天皇や皇太子、皇族の方々の伝統的手仕事や郷土芸能の御高覧のさいのお付きは、決まって栃木県知事と尾島先生でした。

 尾島先生の御講演は、当時、年に200回を数えるほどと伺っておりました。民俗学と郷土の文化と地域興しと先生は、引っ張り凧でした。いくども先生の御講演を伺う機会がありましたが、最初の第一声から、聴衆の心をつかんでしまう話術と栃木弁を随所に織り込み聴衆の気をつかみ、大切なポイントに抑揚をつけて、手振り身振りで話す姿は、私の知る限り、他には経験がないすばらしいものでした。先生のお話からは、情熱を感じました。私もホテル婚礼の司会やセミナーの講師などを数多く経験していますが、ポイントは、先生の講演に追う事が多いようです。ある時、先生から「おまえの話(司会)も上手くなったな。」といわれましたが、それは、先生から学んだことでした。
 鍵は、「情熱」です。言葉を連ねることではなく、情熱を持ち、その想いを語ることでした。

 先生は、日本酒とお蕎麦と釣りが何よりも好きで、那須ビューホテルに来られるときは、決まって、お蕎麦を召し上がりました。また、夜のお食事の折は、那須烏山市にある島崎酒造の東力士を指定して、お召し上がりました。付添には、いつも先生の倍ある体躯の横田則夫さんをつれて来られ、呑みがすぎると決まっておぶられて戻られました。横田さんの都合がつかないときは、大西さんを同じように伴われていました。いつも、宴席では「則夫食べろ」とか、帰り際にお土産を付添の方用にも気遣いをされていて、本当に優しい方でした。私も先生からは、正月とかの折には、決まって、女房宛ての手仕事品を頂戴したものです。
 
 また、奥様の栄様は、尾島先生に良く尽くされておられました。現在も夫唱婦随の中ですが、尾島先生は、二人の女性「御母堂と奥様」によく面倒を見ていただいた方でした。また、そのことを先生も良く知っていて、常に気にかけておられました。必ず下野の男と女には、御母堂のことが、出てまいります。今回の「ブログ紹介」では、奥様のご了解を得て先生の御写真をお借りいたしましたが、全てに奥様の注釈が、着いてありました。著作原稿や講演諸々でも奥様の御手伝いが、あったのでしょう。

 残念ながら、ここ10年ほど尾島先生の体調がすぐれずに伺った際には、ご挨拶だけで殆どを奥様との会話となっておりますが、このご病気も先生の宿命なのでしょうか。私の心の中にお元気だった頃の先生の姿とその民俗学に残された功績と、民俗学にかけるお気持ち、そして生き様が目に焼ついております。この度の「下野・会津・津軽 手仕事専科」の設立のお話の際には、喜んでお話を聞いていただきました。私としても、この仕事が無事に成功することが、先生への恩返しと考えております。先生とのことは、一部の思い出を綴りましたが、ここで筆をおきます。
 このブログでseries④となりますが、この度は最終といたします。有難うございました。

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県立博物館前の記念撮影。
第3回企画展「下野の職人展」
昭和58年4月29日(祝日)~6月5日(日)とあります。
中央が尾島先生。
お蕎麦を召し上がる尾島先生。
那須ビューホテルにご来館の折には、決まって蕎麦でした。
手仕事展でご説明する尾島先生。
先生は、興が載ると決まって馬に乗りました。
わたしも随分と馬になりました。
退官記念講演のスナップです。
若い方を連れて、魚釣りです。右端が大西さんですが、いつも
侍従長で付いていました。
先生の釣りは、大名釣りで、餌は侍従が付けて、
釣れないと直ぐ不機嫌になります。
私も2度ほど川俣にお供しましたが、思い出深い釣りでした。
河原で石焼で味噌味の地物を食べて、サンショウウオや
岩魚、山女を頂戴しました。
村中総出のおもてなしを受けました。

下野新聞掲載「下野の民俗行事」
昭和39年5月16日「蛇祭り」5月の巻
小山市間々田
このシリーズは、昭和39年5月~昭和40年4月の
一年間の掲載でした。
ちょうど先生が31歳の折です。

栃木新聞掲載「栃木県民俗探訪」
昭和41年7月11日
「滅びゆく手仕事をたずねて」第40回
このシリーズは、昭和38年10月9日を第1号として
長年継続されました。

「栃木県民俗探訪」に-下野の性神-
が、掲載されています。

・・・・セックスというのは昔から物の生産と結びつけて
考えられており、多種多様なお姿で現世に顔出しをしている。
人によっては神棚の上に、にこやかに鎮座まします大黒天も
性信仰に関係が深いと説く者がいる。。
性神の証拠には、あの大黒天の後ろ姿は
人間の陽物に
似ているというのである。・・・・


平成5年4月27日 東京新聞
ひと’93に載った尾島先生のご紹介
『自由人』で民俗研修との見出し。
この後、「しもつけ民俗研究所」として活動をされる。
このなかの行から

・・・・三月末に定年を迎えるまで県立郷土資料館長、博物館学芸部長として40年以上にわたり、県の民俗学をリードしてきた。
人々の素朴な文化への思いは深く、熱い。「郷土芸能を演じるのも見るのも同じ村の人。
この一体感、支えあいがたまらなくいいんです」と語る。
小山市生まれ、60歳。中学の時、皇国史観だった歴史の授業が敗戦で様変わりした。
「文献中心ではだめ。自分の目で、耳で調べた庶民の生活文化誌が必要」と痛感したという。
宇都宮大学に進み、在学中から「バッパ(おばあさん)昔は何食った」と生家周辺で聞いて回った。老人をつかまえては質問を繰り返す尾島さんに世間の風は冷たかった。そんな時、励ましてくれたのが亡き母。
「尊敬する人は母。民俗学者は普通、柳田国男さんというんですがな」
その後も埋もれてしまっている民俗文化の掘り起こしに尽力。県民俗学の第一人者だが、語り口は軽妙で腰は低い。「民俗学は人間が対象。心が通じないと、何にもしゃべってくんねえんだわ」とニカッと笑う。
今後は「自由人」として活動を続ける。・・・・
退官記念の折の御写真
花束を手に奥様とご一緒に
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2011年1月9日日曜日

会津西街道/会津の取材series①2011.01.09

 今日は、「下野・会津・津軽 手仕事専科会津木綿原山織物工場を仕入れで伺いました。途中の四季風景と歴史的な寺社仏閣の写真を撮ってきました。写真からご覧ください。
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下郷沢入の分かれ道
上家平の稲荷宮

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2011年1月8日土曜日

尾島利雄先生/講演原稿から      series③

 今、手元には、一冊のアルバムがあり、その表紙の裏側に2つの講演原稿の一部でしょうか尾島先生の文字で書かれていました。それをご紹介したいと思います。

 『しもつけの男・女』
 「皆さん今日は、」私は間々田の地に住んでおります、「尾島利雄」です。今日は、おまねきがあり参上いたしました。
 さて、私が長い間勉強してきたものは、日本民俗学という学問です。
 この勉強は日本の一般庶民階級が一生懸命勉強した勉強です。
 皆さんたちの中にもこの庶民文化を一生懸命勉強してきた方もおられたのではないかと思います。私も間々田の地に生まれ、自分の地域社会である乙女・間々田地区などについて庶民文化を調査をしたものです。
 又、下野の女(栃木県の女性)として名もなく貧しく美しく生きたなきオフクロに限りない敬愛の念を持つキッスイの栃木県子の筆者が、民俗研究者(一般庶民生活文化について勉強してこられた方々)の残してくれたものを中・高・大としっかり勉強させていただいたものです。
 
 本日は、私の時間のゆるす限りの範囲で「しもつけの男・女」と題して話をすすめてみたいと思います。
 さて、民俗学の第一歩は古老をたずねての聞き書きにはじまる。これができなければ一人前の民俗学者への道はすすめないのである。だから年寄りのところに行くことになんの抵抗感を持たない若者でなければならなかった。若い私が弁当腰に古老をたずねて、その昔の人たちの生活文化誌をたずねまわる姿は、まわりの人々には奇異に感じられたものであろう。「金にならないのにつまらんことを」「年寄りのくりごとを聞いて喜んでいる尾島の倅はすこし頭がおかしいのではないか。」とかげ口もたたかれたものである。
私の社会への第一歩は小学校教師であった。教師になっても土曜の午后と日曜はテクテク歩いて民俗探訪であった。私の教師としての将来を心配する人から、「そんなことばかりしていると教頭にも校長にもなれないぞ」と耳にタコができるくらいいわれたものである。
(原稿は、ここまでですが・・・・)

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講演原稿「しもつけの男・女」(右側)
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尾島利雄先生/講演原稿から      series②

 今、手元には、一冊のアルバムがあり、その表紙の裏側に講演原稿の一部でしょうか尾島先生の文字で書かれています。それをご紹介したいと思います。

 『母と私と民俗学』
 名もなく貧しく美しく生きた坂東太郎坂東おトラばあさんが何に喜び何に泣き、何に生きがいを求めたかを調べる民俗学、即ち庶民の生活文化誌の研究に足を踏み入れたのは、私が18才の時であった。当時、民俗学は地方では、一番の仲間ともいえる歴史研究家や郷土史家からも「愚民のタワゴトを聞いて歴史などとは笑止千万と笑われていたころで、これにとりくむ若者は栃木県のではほとんど見当たらなかったものである。

 このようにして私の民俗学の第一歩は、古老をたずねての聞き書きにはじまる。それができなければ一人前の民俗学者への道は歩めない。だから年寄りのところに行くことになんの抵抗感も持たない若者でなければならなかった。
 若い私が弁当腰に古老をたずねて、その昔の生活誌をたずねまわる姿は、まわりの人々には、奇異に感じられたものであろう。「金にもならないのにつまらんことを。」「年寄りのくりごとを聞いて喜んでいる尾島のセガレは、すこし頭がおかしいのではなかろうか。」とかげ口をたたかれたものである。

 私の社会への第一歩は小学校の教師であった。教師になっても土曜の午后と日曜日はテクテク民俗探訪(一般庶民のその昔の民俗探訪であった)であった。
 私の教師としての将来を心配する人々から「そんなことばかりしていると、教頭にも校長にもなれねえぞ」と耳にタコができるくらいいわれた。そんな中にあって、ともすれば挫折しようとする私をささえてくれたのが、オフクロであった。「他人様は何といおうとも自分できめた道は最後までやれ利雄、金玉あんだんべ。」と励ましてくれた母。この言葉を心の支えとして三十年近い民俗研究生活を続けてきたのである。
 今にして思えば、私の人生の教師はオフクロであった。
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講演の「母と私と民俗学」(左側㌻)

下野手仕事会の宴会にて、尾島先生
左から萩原幹雄さん、大畑英雄会長(中央)、渡辺操氏(右)

下野手仕事会の記念研修
尾島先生(中央)、小川政次会長(右前)
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2011年1月7日金曜日

尾島利雄先生/アルバム写真から   series①

 このネットショップ「下野・会津・津軽 手仕事専科」を立ち上げた際に、「Policy(和美との生活)」で「出会いと学び」の中で「尾島先生」をご紹介しております。

 尾島先生との出会いは、昭和55年に那須ビューホテルに入社し「営業企画」担当になった時でした。下野手仕事会の顧問として、親身に「下野手仕事会」企画展についてアドバイスを頂戴いたしました。また、毎年正月元旦からの2日間ホテルの夕食会場で栃木県内の「郷土芸能」を実演紹介しておりましたが、初日にステージで郷土芸能のご紹介を尾島先生に行っていただき、翌日の紹介を企画担当の私が紹介するものでした。また、実演後に御相伴をするのですが、末席でいろいろと伝統芸能や手仕事について教えられました。「名もなく貧しく美しく生きた人々」という言葉を尾島先生は、古の郷土の人々を指してよく使いました。私には、けっして忘れられない印象的な言葉です。

 尾島先生は、枕が違うと眠られないことから、決して泊られることはなく、御供の横田則夫さんや大西さんに伴われて、遅くに戻られていました。それ以来、現在までのお付き合いとなっております。その間、私の赴任地の青森県星と森のロマントピアあぶくま洞にも幾度も訪ねていただきました。心から感謝しております。

 ただ、尾島先生の民俗学著書は、沢山あるのですが、ホームページ上で尾島先生のご紹介はなく、何とかホームページ上でご紹介出来ないものかと考えておりました。今回、「下野・会津・津軽の歴史街道」ブログを立ち上げたことで、下野の民俗、伝統芸能や伝統的民芸品、工芸品の歴史をご紹介することにいたしました。
 尾島先生に「下野・会津・津軽 手仕事専科」により下野手仕事会の方々の作品を販売することを報告いたしましたところ、とても喜んでくれました。私も先生へ恩返しが出来たように思い、嬉しく感じておりました。

 そのようなことで奥様の栄様から、尾島先生のアルバムを7冊ほどお預かりして参りました。尾島先生は、お母様から大切に育てられ、ひじょうに母親想いの方でした。講演では、お母様のことに必ず触れられ、ご紹介しておられます。その際には、昭和裕仁天皇のご高覧の折に尾島先生は、県知事とともにご進講(説明)されておられますが、そのことをお母上にご報告できたことが、何よりも嬉しい恩返しだったと述べられていました。

 沢山の写真から、幾つかのシリーズに分けて、ご紹介したいと思います。尾島先生は、栃木県立博物館学芸部長を最後に退官後は、とちぎ民俗文化研究所所長として、年間約60回もの講演をこなされておりました。ひじょうに情熱的な語りで、最初の第一声で聴衆を惹きつけてしまう話術は、ホテルのイベントや結婚式の司会を行う私には、雄弁なモデルでした。コツは、「情熱を持つこと」「そのものを好きになること」でした。言葉を覚えるのではなく、「想い」を醸成して、情熱を持って「想い」を伝えることでした。

 今日は、series①であるので、簡単に尾島先生の数枚の写真だけをご紹介いたします。
■経歴■
尾島利雄(おじまとしお)
昭和8年  栃木県小山市乙女に生まれる。
       宇都宮大学に学び教師となる。
       東京教育大学民俗学研究室にて民俗学を研究。
       民俗学に関する著書多数。
       栃木県立郷土資料館長(元)
       日本民俗学会評議員(元)
       下野民俗研究会理事長(元)
       栃木県立博物館学芸部長(元)
       とちぎ民俗文化研究所所長(元)

著書    日本の民俗栃木、栃木県民俗芸能誌、下野の伝説、
       生きている民俗探訪栃木、俺はやんなっちゃった、
       それみたことか俺があんなにいったのに、
       栃木県の年中行事、
       祭礼行事栃木県

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尾島先生の退官・還暦記念の祝賀会
(平成5年3月27日)
尾島先生と奥様の栄夫人

退官記念講演
演題「下野民俗への道」
  
皇室の高円宮と尾島先生
尾島先生と横田則夫さん
四国へ那須の与一取材
尾島先生と大西さん

郷土芸能の披露
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