「下野・会津・津軽 手仕事専科」には、下野の紹介の行で「下野には、那須國造碑(なすのくにのみやつこのひ)の大和時代から・・・・」とあります。
これは、烏山和紙の福田弘平氏から和紙の歴史を伺っていいた折にいろいろの資料から、教えていただきました。烏山和紙は、程村紙というのですが、越前和紙の技法が、烏山の程村という地に伝わり全国的な紙の呼称になって残っています。
それとは別に大和朝廷がこの地の蝦夷征伐後に各種産業を大和朝廷の元に起こす必要がありました。渡来人といわれる方々を朝鮮から連れてこられ、製紙の技術を普及させたといわれます。この地から隣接する茨城県常陸大宮市西ノ内一帯が、和紙の産地として、現代まで継承されています。現在では、烏山の福田製紙所1社と常陸大宮市西ノ内に2社を残すばかりとなっています。
その那須の領地を納めた記録が「笠石神社の那須國造碑(なすのくにのみやつこのひ)」となります。日本三古碑」の一つですので、私の学んだ日本ビューホテル㈱の箭内源典は、毎年正月元旦に3つの國造碑に参拝されていました。当初は、それほど気にしてはおりませんでしたが、今では、その箭内氏の気持ちが分かるように思います。
いくどか、笠石神社を訪ねておりましたが、初めてその境内の風景を写真に納めてまいりました。近々、しっかりと宮司を訪ね再度ブログでご紹介したいと思います。
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これは、烏山和紙の福田弘平氏から和紙の歴史を伺っていいた折にいろいろの資料から、教えていただきました。烏山和紙は、程村紙というのですが、越前和紙の技法が、烏山の程村という地に伝わり全国的な紙の呼称になって残っています。
それとは別に大和朝廷がこの地の蝦夷征伐後に各種産業を大和朝廷の元に起こす必要がありました。渡来人といわれる方々を朝鮮から連れてこられ、製紙の技術を普及させたといわれます。この地から隣接する茨城県常陸大宮市西ノ内一帯が、和紙の産地として、現代まで継承されています。現在では、烏山の福田製紙所1社と常陸大宮市西ノ内に2社を残すばかりとなっています。
その那須の領地を納めた記録が「笠石神社の那須國造碑(なすのくにのみやつこのひ)」となります。日本三古碑」の一つですので、私の学んだ日本ビューホテル㈱の箭内源典は、毎年正月元旦に3つの國造碑に参拝されていました。当初は、それほど気にしてはおりませんでしたが、今では、その箭内氏の気持ちが分かるように思います。
いくどか、笠石神社を訪ねておりましたが、初めてその境内の風景を写真に納めてまいりました。近々、しっかりと宮司を訪ね再度ブログでご紹介したいと思います。
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国道294号線沿いから、 数百メートルほど大田原市よりの 田園の脇に御社があります。 |
那須國造碑の碑文の大意は、下の内容です。
「永昌元年(中国の年号で、当時朝鮮半島にあった新羅の国では
中国の年号を使用。元年は西暦689年。日本では飛鳥時代)
の巳丑(つちのとうし)4月に飛鳥浄御原(きよみがはら)の
大官(おおみや)(持統天皇)から、那須國造の
追大壹(ついだいいち)(那須国の長官・正六位)であった
那須直韋提は評監(こおりのかみ)(郡の役人)に任命された。
そして庚子(かのえね)の日(西暦700年1月2日)の
辰の節(午前8時頃)に長逝しました。
そこで遺嗣子(息子)の意斯麻呂(おしまろ)を首とする私どもは、
碑銘を建て遺徳を称え故人を偲び祀りました。」
これは、大麻で作られていました。 「緒鈴(鈴の緒)」と言います。 全国津々浦々の神社には、大麻が使われています。 |
株式会社とぴい企画
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